お年寄りの昔話を聞かないのはもったいない

思えば、祖父母やそのお友達方がするよもやま話や思い出話を聞くともなく聞く機会は今までにもたくさんありました。それはもう小さい頃から今の今までたくさんあった。

しかし自分の祖父母の子ども時代のことや町の過去に興味を持つようになったのはごく最近の話で、今になってようやく、これまで聞き流してきた話、聞き逃した話のことを思い「もったいないな」と感じるようになった。

本人たちのこの「もったいない」という感覚が伝わるだろうか。

ふとそう思ったから、この記事では僕の「もったいない」の感覚を残しておこうと思います。

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昔話を聞き流すのはどれくらいもったいないのか

誰もが自分たちの昔話を「価値」のあるものだと思うわけじゃない。

そんなのは当たり前です。

僕だって、自分の過去に特別な価値があるなんて思わない。

しかし例えば僕のように「目的を持ってそれを使おうとする人」にとっては、例え本人たちにとっては何てことのない昔話でも、珍しくない話でも、ものすごい価値があるものだと言い切れる。

その「話」は例えるなら、湯水のようなものです。

僕のいないところで昔話をするのは、バスタブに栓をせずにお湯を流し続けるようなものです。

僕はそのような感覚で、「もったいない」と言っている。

入れ物に入れるから使えるものについて

本人たちにとって、自分の中にある昔話なんて別に減るもんでもなし、大切なのは間違いないけど珍しくもなんともない、豊かな国に流れる水みたいなものなのかもしれません。

だけど考えてみて欲しいのです。

僕らが湯水を目的を持って使おうとするとき、必ず枠や入れ物が必要になります。

バスタブに溜めるからお風呂になる。

コップに汲むから飲み水になる。

バケツに溜めれば掃除用のお水になるだろうし、桶に汲んで枕元に置けば熱を冷ます水になる。

入れ物に溜めて、流れないようにして初めて、僕らはそれを使うことができます。

海や川だってあるじゃないか、と思われるかもしれないけれど、ここでも僕らは枠や入れ物を使っています。

「海」や「川」という言葉がそうです。

思い出は重くない

言葉というものは、形のないもの、流れていくものにとっての「枠」や「入れ物」です。

概念という境界線を作ることで、僕らは海と川を区別することができるし、湖と池を区別することができます。

そして用途に応じて使い分けるのです。

昔話が湯水のようだと言うのも、このようなこと。

昔話はただ話すだけでは垂れ流しですが、意識的に枠を与えることで意味のある何かになる可能性がある。

もちろんただ垂れ流しの流れっぱなしという状況が悪いと言っているわけではありません。

ただ、もし現在80歳代のお年寄りの話が湯水のような資源だとしたら、あと数年、長くても数十年で、確実に枯渇し、誰もそれに触れることができなくなってしまうのです。

水と違って、お年寄りの昔話なんて別に消えてなくなっても死なないだろと思うかもしれない。

さあどうだろう。

それは入れ物に溜めてみないと分からないけど、重いもんでもないし取っておいて損はないだろう、わざわざ捨てる必要もないだろうという、そんな「もったいない」精神の話です。

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