小説を書くのなら頭が良くなければならないのか

自分で考える創作論

小説って頭が良い人が書くものなんだろうかとか、頭が良くなければ書けないんだろうか、もしくは、頭が良い方が良いのだろうか。

頭が良い方が良いんだろうかって疑問がまずもってバカっぽいんだけど、でもたまに考える。

漠然と頭が良いと言うと、「学歴が高い」とか、「知識が豊富」とか、「論理的である」とかっていうキーワードが頭に浮かぶんだけど、これらのキーワードってよく考えれば学歴に繋がるし、やっぱり何だかんだ、小説なんてものを書かんとするなら、最低限このくらいの大学は出られるくらいじゃなきゃダメだ、みたいなのがあるんじゃないかな、と思うことがあるわけです。

もちろん、究極的には学歴なんて関係ないということはよく分かりますし、学歴コンプレックスがあるわけでもありません。

ああでも、その気になれば良い大学出れるくらいの知能がなきゃ、小説を書くなんてレベルが高すぎることなのかなあと、自信がなくなったときなんかは思ったりする。

 

頭の良さを察するマークとして学歴は分かりやすいけど、普通に生きていれば頭の良さって学歴だけじゃないことってよく分かりますよね。

人の顔色を察して対応を変えたり、言動を変えたり、いわゆる「空気が読める」人も頭が良いと思うし、「世間知」と呼ばれるような頭の使い方に秀でている人もいる。

あと、年配の方や親の世代と話しているとよく思うんだけど、現代感覚とか適応能力といった領域の頭は20代30代の方が上なはずなのに、上の世代の人の、対人時の立ち居振る舞いとか咄嗟のときの判断力に見られる落ち着きのようなものを指す頭の良さがある(世間知とほぼ一緒かもだけど)。

気になって調べてみたら、こういう頭の良さには「結晶性知識」という名前がついているらしく、一方若い世代で頼みとするような頭の良さには「流動性知識」という名前がついているのだとか。

ほおー面白い。

ああ、あと、小さい子を見てても、いわゆる「ずる賢い」と言われるような頭の使い方が光ることがありますよね。こしゃくな!って思うような。これは猫にも感じる。てっめこのやろーってなるやつ。

他にもまだまだある。手先が器用な人や、スポーツが得意な人にも頭の良さを感じる。

頭の良さにはいろいろある。

ということは、小説を書く上では、小説を書く頭の良さが必要ということなんだろう。

じゃあその小説を書く頭の良さってなんなんだろう?ということなのです。

 

小説を書く頭の良さってなんなんだろう?って考えたとき、漠然とやっぱ頭良くないとダメなのかなあって僕が考えてしまうのは、ここまで書いてきたように、世の中に生きとし生きる人間はみんな、自分の頭の良い部分を頼みに人生を生きているはずだと思うからです。

みんなが当たり前のように、自分が一番得意な頭の使い方をしながら日々を生きている。

もっとも賢いやり方で、もっとも慣れた方法で情報を処理して、行動を決定している。

それがある人からの視点ではバカバカしい判断に見えるかもしれないし、ある人にとっては意味不明なものに見えることもあるかもしれない。

もちろん普通にそのもっとも賢いはずの判断が間違ってることもあるだろうし、見たら思わず膝を打つほどスマートな判断に見えるかもしれない。

結果的にどう映るか、どうなるかは別として、誰もが最善の方法で頭を使っている。

小説って、そういう当たり前の人のことを書くものなんじゃないのかと僕は思うのです(それだけとは思ってないけど)。

バカな人はバカな役としてバカバカしく小説内で登場するのではなく、その人が全力で最善の方法を考え出した結果、周りにバカと呼ばれてしまうからバカなキャラクターになる。

小説においてリアリティを少しでも生み出そうと願うのならば、そういう意識をしないと人間が嘘くさくなっちゃうんじゃないか。嘘くさい人間をただ配置しただけでは、話が薄っぺらくなっちゃうんじゃないか。

いろんな人のいろんな種類の頭の良さを理解しなければ、人を書くはずの小説で人を書くことはできないのではないか、と思うのです。

そして、それらの人がどう世界を処理し、どのような行動に出て、どのような発言をするのかということを理解するためには、世の大半の人よりも頭がよくなくてはならないのではないか。だから、頭良くないとダメなのかなあーって考えちゃう。

たまにそのような考えに囚われて、自分の知能の低さに愕然とするというようなことがあります。

 

僕は他人のことが理解できない、とは思わない。

だけど、僕が他人のことを理解しようとするとき、僕はやっぱり僕が最善と思う方法で、僕の頭の使い方の癖を通して他人を見て判断しているから、僕を通した他人は僕の貧弱な頭の中でだけ理解した、僕もどきの、僕を越えない人間になるのではないか、と思う。

僕を通した僕は僕でしかないのではないか。

それこそが僕個人が持つフィルターであって、文章においてはそれが持ち味とか文体になるのだという考え方もできるけれど、今の僕はあまりに一辺倒に他人を理解してしまっているという感じがしている。

生み出す人間がみんな同じ僕と同じレベルの論理と世界観の中で生きている気がしている。

このような殻があるからこそ、たまに苦しくなるわけです。

頭の良さはもちろんだけど、知識や経験も足りないのではないかとか、視野が狭すぎるのではないかとか、そういう不安に駆られることがあるのです。

不安がってないで不安なら今すぐできる勉強の一つでもすれば良いのは分かっているんだけど。誰かに最近どう?って連絡でもすれば良いのは分かっているんだけど。

 

小説を書くのなら頭が良くなければならないのか(完)

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