目標を達成するには必要な要素を並べてもダメ。「無駄」が要素を繋ぎ、目的を達成する鍵となる。

前回の記事で「部分は全体の総和にならない」って話をしました。

何か問題(課題でもミッションでも呼び方は何でも良い、解決すべきこと一般があって、それを解決するには色々と入り組みすぎている。

だから問題を分けて、一つ一つの要素を解決しても、全体で見るとうまくいかない、つまり解決できない、ということがよくある。

これは料理、デート、旅行、文章の作成、建築の設計などなど、人生の至るところで起こる、誰もが経験的に知っていることだと思います。

でも、なんでそんなことが起こるのか。

それは要素と要素を繋ぐ文脈に「何か」が足りないから。

じゃあその何かってなんでしょう、ということを考えていきたいと思います。長いです。

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 人間の判断とコンピューターの判断

人間は正解を好むとは限りません。

人の人生は正しいかどうかではなくて、好きか嫌いかという感情レベルの判断基準で選んだもので出来上がっています。

そもそもデザインって人が気に入るかどうかの世界の話しなのですから、そこに「正解」はないはずでしょう。

広くて明るい部屋がみんな大好きという訳ではなくて、狭くて薄暗い部屋の方が落ち着くという人もいる。

だから、コンピューターで「日当たり」とか「風通し」とかあらゆるコンテクストを検討して、理屈上ベストのものができたとしても、そこを人間が気に入るかどうかはまったくの未知数です。

あらゆる欲求や好みに応えた上で、ベストなデザインを導き出すことがそのうちコンピューターにもできるようになる、ということを多分松川先生は信じているのだと思いますが、現段階ではコンピューターの計算には限界があるのではないでしょうか。

創造社会論の3回目(ビデオ的には前後半に分かれているので3回目、講義的には第二回。)で松川先生と井庭先生はこんなような話をしているのだけど、そこで松川先生は創造って人間だけの営みじゃないはずだと仰っています。

井庭先生もそこには反対してないんだけど、「意味」とか「文脈」ってものに結びついたときのコンピューターの限界は感じていて、一見アナログに見えるパターン・ランゲージという研究をしているのだそう。

パターン・ランゲージというのは、創造的な営みの上で問題を発見し、突破する方法の集合知、からさらにピンポイントなコツとか秘訣みたいなものを抽出したもの、と僕は解釈しています。

ここで言うコンピューターの限界って、多分なんだけど、「そこは人間がやった方が早くない?」って程度の意味がまずあると思うんだよな。

だって何か家のデザインをして、コンピューターでそこに住む人の趣味嗜好を完璧に把握してて、論理的に快適なはずだって分かっても、いやもっと進化してあらゆる情緒的な問題、変化する心とか状況に応じた思考が自発的にできるようになったとしても、そこに計算とかデータの抽出とかってプロセスがあるんだとしたら、やっぱ人間の方が早いんじゃないか。

スピードの問題じゃなくて、それ人間はもともとできるんだからさって感じです。

だって僕たち一瞬で快・不快は判断するじゃないですか。

旅行に行ったときの宿泊先とか、部屋に入ったら一瞬で良い部屋かどうかは分かりますよね。

なんでかなんて分からないけど、直感で「良い」と感じることができるのが人間です。

あとよく思うのが料理です。

料理のレシピなんか知らなくても、甘味と辛味が何:何で混ざり合ってるとかそんなこと知らなくても、一口でうまいかどうかは分かる。

その料理がおいしいかどうかはロボットにも判定できるんだろうけど、人間がやった方が早いし、何より有意義じゃないかなって思う。

だってコンピューターがこれは美味しいと「判断」するのと、人が食べて美味しいって「判断」するのとではやっぱりかなり違うと思いますからね。

物語の有無

さらにコンピューターの限界ってところを、人との違いと照らし合わせてみると、やっぱり限界って見えてくる気がします。

何が違うってまさに文脈にあたる部分が違いますよね。

はっきり物語と言ってもいいかもしれません。

前回の記事で、「部分の総体は全体ではない」ということを書きましたが、優れたパーツを集めても全体が適したデザイン・結果になるとは限らないというのは多分誰もが経験的に知っている自明のことだと思います。

松川先生によると、物事のデザインというのは、「形」があって、「コンテクスト」があって、それらがいかにフィットしているかというところにあると言います。

コンテクストというのは評価や価値と訳して構わないんだけど、単純に文脈と言った方が僕は分かりやすいと思う。

その形がその形である意味とか、成り行き上必要だったこと、自然な流れ。そういったものが「文脈」のはず。

前回も書いたけど、トリックも登場人物も動機も舞台も面白い設定が浮かんだとしても、それを寄せ集めたミステリー小説が面白いとは限らない。

それらの要素が必然的に連なる自然発生的な「文脈」がなければ、とりあえず繋げましたみたいな感じになってしまって総体として変。好き嫌い以前に創作物のデザインとして違和感がありしっくりこない。完成していないという感じ。

なんでこんなことになるんでしょう。それは、無理やりこさえた文脈には「何か」が足りないからです。

その何かは人間同士の関係性の中にある。つまり、人間にしか作れない、人間しか持ちえない感情の中にある。

人間は数値化された評価とか基準値とかそういうことは全く知らなくても、物事の良しあしを判断する力を持っていて、かつ、その判断には物語があります。

つまり、コンピューターは自分というものがなく、絶対的な基準で物事の良しあしを判断できるけど、人間は自分に流れている物語があり、必ずしもゼロ基準から物事を判断することはできないということ。

「人間には特有の物語(文脈)がある」という点をさらに説明するとすれば、その判断は過去の経験によるものであるし、未来の判断に影響するものでもあるということ。

それだけ言うとコンピューターも一緒じゃんって思うかもしれないけれど、これは判断のための材料ではなく、物語を紡ぐための材料です。「自分がどのように生きるか?」という生命レベルの材料です。

例えば、どこかのお店で料理を食べたとする。

過去の経験と照らし合わせてみて、今までの中でもとびきりおいしいものだった。

よし、来週もこれを食べにこよう。今度は友達もつれていこう。

前半のとびきりおいしいというところはともかく、その後の来週も食べようとかって判断をコンピューターができるでしょうか。またコンピューターが行う必要があるでしょうか。

また、不意にこの美味しいものを誰かにも食べさせたいという感情が発生したとき、一瞬で判断基準は変わりますよね。

「ここの料理なら野菜嫌いのあの人でも食べれそう」という判断になったり、逆にお洒落なお店の雰囲気に似合いそうという理由で、ある人を思い浮かべて、今度誘ってみようと考えたりする。

人間の思考は一直線ではなく、雑多に入り乱れており、前後左右、過去未来の概念も乏しく、縦横無尽に行き交います。

その中である程度「現在、この時間、この私」という文脈に沿う内容を理性的に選んで、「考えている」と思っている、のではないでしょうか。

実は捨てる情報の方が多いんだけど、四次元ポケットの中みたいな思考回路の中から一筋恣意的に選んで適用しているだけ。実は最低限の繋がり以上の充溢した「流れ」がある。

図にしたら少しは分かりやすくなるでしょうか。

要素と文脈の図

このように、適当にこしらえた文脈でも、繋げるだけはできます。

でもなんかイマイチ。やっぱり意味ある形としては、自然に連なってないと。

そこに感情の揺れというものは必須で、コンピューターにはその感情がない。故に好き嫌いも気分の変化もなく、自分がなく、論理以上の要素で「繋ぐ」ものがない。図の一番下みたいな状態です。

宿を一瞬見て、または料理を一口食べて、「良い」と根拠なく判断(独断)する思考の飛躍が起こらない。

この飛躍部分、どことどこが繋がるか分かんねえぞって部分が創造に繋がるから、僕は創造ってやっぱ人間特有のものなんじゃないかなって思うんだけど、きっと松川先生はそこの垣根をコンピューターが越えるということを言ってるのかなと思います。

グーグルが開発した人工知能に描かせた絵っていうのがちょっと話題になってたけど、これを見るとコンピューターも創造的だと言えるのかなとか思う。いやでもこれで何か感じるのはやっぱり人間だしな。すごいの描いてやるって思って描いてるワケじゃないだろうし…。んー分からん。

参考↓
Googleが開発に成功した人工知能に絵を描かせた結果、おぞましい迫力のものができあがった

人間の、結晶の作り方

要素を組み合わせても全体のデザインが良くなるとは限らない。要素同士を繋ぐ文脈と文脈の間には途方もなくたくさんの捨てる情報がある。

創造行為というところに改めて着目してみましょう。

確かに、どちらも創造は可能だと思う。だけど違う。

どのように違うか。

コンピューターのデザイン形成が色々必要な元素を組み合わせて、実験実で一から結晶を作るようなものだとしたら、人間は原石を削って削って磨いて磨いて結晶を見つけるような作業をしているのではないでしょうか。

人間の作業は「ゴミ」がたくさん出るからスマートじゃないかもしれないけれど、削るとか磨く行為の一つ一つに意味がある。文脈がある。物語がある。

それは好みや意思、理想と言った、とても人間的な感情の上に成り立っている。

文脈と文脈を繋ぐものは「人間同士の営みの中にあるんじゃないか」、みたいなことを井庭先生は言っていたんだけど、僕はそういうスマートじゃなさが自然な文脈で、要素同市を自然に繋ぐ「何か」なんだと思う。

こう考えれば、前回の記事で書いた、色々雑誌を読んで完璧なデートプランを立てたのに告白はうまくいかなかった、みたいな現象もなぜ起こったのかが分かるのではないでしょうか。

デート中、実際に一緒にいる人を見て、あらゆる可能性の中から常に最も快適なもの感情で選んで選んで削り出したものでなければ最適なデザインを施されたデートとは言えないでしょう。

目的は一緒でも、そこに至るまでにスマートとは言えない要素がなければ、それを受け入れるがむしゃらさがなければ、目的のものは見つけられないのだと思います。

だから難しいんだよなあ。無駄をするって怖いもんなあ。誰もが効率的にスマートに生きたいと思ってるしなあ。

続き→形が先と言っても、とにかくやってみるとは違う。/毒舌キャラの作り方

目標を達成するには必要な要素を並べてもダメ。「無駄」が要素を繋ぎ、目的を達成する鍵となる。(完)

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