他人がいなければ。実態を繋ぎとめる他人について。

いつだったか作家の川上未映子さんが「服は脱げるのに身体は脱げないのはどうしてだろう」という問いを幼い頃から抱えていたと語っていたのを覚えています。

大変な共感を覚えました。同じ感覚かどうかは分からないけれど、身体がある不自由さを感じることは、昔からままあったように思う。

思考の自由さに対して、身体は不自由な足枷でしかなくて、考えてみれば世の中の不満のほとんどは、この「身体がある故の不自由」なのではないでしょうか。

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身体がなければと思うのも事実なら、身体がなければと思うのも事実

ずっと文字を打ち続けていたいと思っていても目や首筋が疲れてしまったりして、お腹の減り具合に我慢できなくなったりする。

本を読むのがいくら好きと言っても、やっぱり目や肩が疲れれば一度本を置かなければならない。

そもそも腹も減らず休息も必要ないのなら、お金を稼ぐ必要もないので、本当に好きなことができる。いつまでも夢見心地のまま、寒いも暑いも感じる必要もない。現実と空想のバランスを考える必要もない。

そういう意味で早く死にたい、身体を脱いでしまいたい。

ただし、そういうポジティブな希死念慮も、身体があるが故に本心じゃない。

生きるのに必要なことは、残念ながら非常に気持ちが良い。

熱いも寒いもなければ春のぬるい風に心を動かすこともできず、痛いも痒いもなければ他人を気遣うこともできない。

身体がなければと思うのも事実なら、身体がなければと思うのも事実。

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自分の身体を捨てる作業

考えてみれば、こうしてネット上に文章を書き連ねていく作業は、自分の身体を捨てる作業のように思います。

ネット上に置いた自分の思考は時間も場所も超えて存在できる。

少しずつ身体を脱いでいる感覚。

ネット上に自分の何かを置く作業がもし、身体を脱ぎ捨てる作業そのものであるか、もしくは身体を脱ぎ捨てる準備であるとして。

僕が面白いと思うのは、ネット上に散らばる「自分の断片」をつなぎ合わせても自分そのものにはならないということ。

昔、以下のような文を書きました。

要素と要素の間には「繋ぎ」が必要で、その「繋ぎ」ってのが実は重要なんじゃないのという話。

人間の材料からヒトを作れないのはなぜか。部分の総和は全体にならない。

繋ぎって「文脈」であって、文脈って「成り行き」とか、そういうもんだよねと。

 

SNSサービスの数だけ自分の面を作って、中央たる自分自身の身体がそれを統合して一個の自分として認識してはいるけれど、その電脳世界の僕を認識する僕がいなくなったら、僕の断片はどういう形になるんだろう。

要素をつなぎ合わせても一にはならない。

宇宙の中に説明できない観測できない物質があるのと同じように、空隙にこそ形を保つ本質があって、思うに、人に見せる文章というのはこの間隙を埋めるものが足りない。

そして僕が何を言いたいかと言うと、僕は、僕がネット上に作り出しているこんな人格とか、こういう面とか、ああいう面とか、そういうのを全く知らなくても僕という実態を持った人間を認識できる存在なんだろうと思う。

ちょっと分けわからないこと言ってるようだけど、僕の実態を認識するという方法で僕の体を繋ぎとめる他人がいなければ、僕は人間として機能しないのではないか、という感覚がある。

 

他人がいなければ。実態を繋ぎとめる他人について。(完)

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