「割り切り癖」が「創造力」を阻むとして。「考え方は人それぞれ」とか、大人になったつもりでさ。

「考え方は人ぞれぞれだから」って言うことが増えたし、大人になるに従って周りの友達もそんな感じのことを言うことが多くなったような気がします。

自分でもそう言う言い草で他人との折り合いをつけたり衝突を避けたりすることもあるのに、誰かが「ま、考え方は人それぞれだからさ」とか言ってるのを聞くと、ああ、これが老化なのか、って思う。

慌てて「いやいやそういう風にすぐ考えるの諦めるのって、大人な対応ってよりは年寄りのメンタルっぽいよね」ってぶち上げてみる。

でもやっぱりそういう考え方も「それぞれ」であって、否定も肯定もされず、いやむしろ「そうかもね」とは言いつつ絶対腑に落ちてないし若干不愉快に思ってはずなのに、どちらかというとそんなことで話が長引くのが嫌で堪らない様子、「もうメンドクサイ話やめようぜ」って顔を見ることもある。

僕らはいつしか「割り切る」ことを覚え、そうやって多くのことに目をつぶり、問題を解決しないどころか「問題視しない」という解決法を選ぶことがよくあります。

この方法は使いこなせれば生きやすいかもしれないけれど、安易に割り切ってしまえば済むものを割り切らずにいることがこれからの僕たちには大事なことだと思う、ということを書きたいと思います。

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僕らがいつの間にか身に付ける割り切り癖について

「無くて七癖」と言われるように、僕らにはどうしても癖というものがあって、たいてい、よっぽど気を付けないとそれらはどんどん増えていきます。

そして癖って多くが好ましくないもので、「考え方とか生き方は人それぞれだからさ」とかって言って話を終らせたり、思考を止めたりすることもここでは思いっきり悪意を込めて「割り切り癖」と呼ぼうと思う。

割り切るって上手に出来れば楽です。

なんであの人は毎日始発電車に乗って終電で帰ってくる生活を送っているんだろう。

なんであの人はそこまで都会暮らしに執着するんだろう。

なんであの人は家族にあんなにキツイ口調でしか話せないんだろう。

なんであんなにペットを増やすんだろう。

なんでなんでなんでと言い出せばキリがない程、世のなかにはなんで、どうしてが溢れています。

理解できないことは全て不愉快なことだと言い切るとすれば、世のなかには不愉快が溢れているということになる。自分以外はすべて(ときに自分自身でさえ)不愉快発生装置です。

誰も不愉快になんてなりたくないから、そもそも疑問を持ちさえしなければ良いと僕たち大人は考えるようになって、自然に、ある程度もうこれ以上は踏み込むのめんどくさそうだなって段階で割り切って、「ま、考え方は~」ってのが始まる。

人への興味が希薄な社会は寂しい

反対に考えることもできます。

なんであの人は○○なんだろう?

どうしてあの人は○○をするんだろう?

それは不愉快な疑問ではなく、「興味だ」と言い切ることもできるのです。

人への興味、素朴な好奇心、信じられないものへの希求。

疑問が不愉快な気分を生むこともあれば、そういったどちらかと言えばプラスの感情を引き起こすこともあって、それとこれとの区分けは人によって違う。

そんなのは当たり前だし、僕がたまたまその人にとってメンドクサイ系の話しをすることが多いから割り切り癖に出会う機会が多いんじゃないかって可能性は確かにすごく高いです。

でもそういう可能性はここで一旦置いとかせてもらって、とりあえず問題に思うのは「割り切り癖」って実は「他人に興味が持てない・他人の興味を持たれない」状態であって、僕はそういうのを寂しく思っているのではないかということ。

例えば、昔、「じいちゃん世代の人とどう話したら良いか、何を話したら良いか分からないんだけどどうしたら良いか」みたいな話をしたことがあります。

その場にいた友達数人は、「じいちゃん達なんて結局話したいこと話したら満足なんだから適当にはいはい言ってればいいんじゃないの?」って言いました。いや文面で見るほど嫌な言い方ではないです、これすら適当な相槌だったに違いないから、悪意のない、友達同士の会話。

だけど単純にかっこ悪いって思った。大人の処世術というよりは疲れた大人の真似に見えた。

だから僕の中で無性に反発心が持ち上がってくる気配があって、こんなときこそ「考え方は人それぞれだから」って割り切れば良かったのに、ここでこうして書いてしまう程には引きずっている。

こんなときこそ、「創造」の力が必要なのではないかと僕は思うのです。

「問題の解決」をしてる時間がないから「問題視しない」という解決法は創造力を損ねる

ここで創作のことを考えたいんだけど、あらゆる創作の根本にあるのは「問題の解決」だと思います。

「問題」というのがざっくりしすぎだけど、さらに大ざっぱに言えば「不愉快な状態」です。そこから解放されたいのです。

創造にいたる病

とか

悪口/悪口

で似たようなこと書いたかもしれない。

「分からない」が気持ち悪いから解きたくなる。

「もやもや」するからはっきりさせたくなる。

上述した例で言えば、僕は老人とどんな会話をしたら良いのか、どう接したらお互い満足行くコミュニケーションが取れるのかという問題を抱えていた訳です。

適当にやるというのは解決しない、問題視しないという解決法で、それじゃ納得がいかないから、僕はさらに悩むことになる。

そういう風に写真も絵画も文学も生まれるのだと思うし、「よく分からない状態を不快に思う」って部分がまさに、人間が人間たる芯の部分だと思う。不可解なものに興味が湧いてしまうというどうしようもなさが。

割り切れないことを割り切れないまま考え続けられるのが人間の強みで、ロボットには明け渡したくない部分でもある。

ところが僕たちは大人になるに従って「せかせかした現実」に埋め尽くされて、「疑問」に付き合ってる時間がないから「割り切る」という解決法を選ぶようになります。僕たちはロボットのように無駄がなく、クールに生きられるようになっていく。

ロボットが人間に近づいてるんじゃなくて、僕らがロボットを目指してるんじゃないかなって思う。

自分が固定されていけば行くほど、自分に関係がないことが増えて、多くの不愉快を見ることでさえしなくなりますよね。誰にでも心当たりはあるはずです。

想像や非現実的なものや不要なものや自分に関係がないものをどんどん排除しようとする。そんなものに費やす時間はない。だってやるべきことがたくさんある。

つまりそうやって、「創造」を甘く見るし、創造の産物ですら見くびったりするようになる。

モモを読む/現代の必読書『モモ』に学ぶ自分だけの時間の見つめ方

疑問を抱く感性を閉ざすということは、即ち「問題の解決」が根本にある「創造」から遠ざかるということでしょう。

創造はまだ僕らにしかできないことで、僕らが人間である限り求められ続けるものだから、それは諦めちゃいけないところだと考えている。

それでも「いや、創造とかクリエイティブとか俺とは無縁だから…」って思う人が大半なんだろうけど。

「割り切り癖」が「創造力」を阻むとして。「考え方は人それぞれ」とか、大人になったつもりでさ。(完)

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