意味もなく意義もなく煩わされる問題

最近は特に「多様性」について考えることが多いです。

「どうして僕は多様性を大事に思ってるんだろう?」「多様性を尊重する社会ってどんなだろう?」「僕は多様性という言葉をどんな風に捉えてるんだろう?」そういうことをもっと曖昧なレベルで考えています。

目的は、「何となく大事だと思うから」でしかなく、みんなが身も心も楽に生きるにはどうなればいいのかと博愛精神で考えることもあれば、僕が毎日楽しく生きるにはどんな風になれば良いだろうみたいな利己的な精神で考えることもある。

その途中の、「僕とこれから関わる人が僕の町で幸せな時間を送るためには?」という博愛的でありながら利己的な精神で考えることもある。

そうこう考えてるうちに、ああ僕の中身も多様なんだなあ、多様さって目に見えるものもあれば目に見えないものもあるし、意識できる部分と出来ない部分があるんだな、ということが何となく分かる。そういうごちゃごちゃが僕だけじゃなくて世界中にあって、各個人が抱えている。見える部分も、見えない部分もごちゃごちゃに。

ここでは、もっともっと素朴に、「ところでなんでこんな面倒くさいこと考えてるの?意味あるの?」という自分の中から聞こえてくる声に応える形の記事にします。

社会的な、もしくは人類というスケールでの多様性の尊重とは?という問いには、「多様性は他人を知るためではなく、自分が間違ってる可能性を知るための言葉だと思う」という記事と頂いたコメントで、僕なりに納得の行く結末を得ました。

だからこれ以上考える必要がない、のではなく、考えるときに使える材料が一つ増えたという感じがあります。信頼できると思う計算機でも分度器でもなんでも良いけどそういう道具が一つ増えたので、これ使ったらもっと考えるのが楽しくなるぞってことです。

でも僕がどれだけ大義名分を掲げて多様性を云々しても、それが誰かの、もしくは社会の役に立つとは思いません。僕にとってもそういう意志はなく、誰かに意見を主張したいという感覚もない。自分が正しいことを考えてるとも思ってません。

それは、例えばそもそも考えてどうする?という領域や、考えて役に立つ?という領域など諸々の観点から「正しくないことを考えている」という意味でもなく、正しくもないし間違ってもないことを考えているという意味。

何となくこういうことを考えることに捉われていて、ハマってるという感じです。ゲームの続きやるか的なノリで、ブログの投稿ページを開くと、てかパソコンを開くと「多様性ってのは…」って考えてる。だからこれは今ハマってる遊びでしかなく、極端な話ヒマつぶしでしかない。

僕は何となく考えたいと思っているから考えるし、何となく重要なことなんじゃないかなと思うから考えるだけで、こういう考えが実を結ぶというか、何かの結果になるかどうかとかを考えているわけではない。意味があることなのかと言われれば、「ないんじゃないかな」と言うしかない。

でも「仕事」もしなければならない時間を割いてまでこんなことを考えて書いてる(在宅なので就業中にという訳ではないけどね)。優先順位が間違ってる感はあるけど、無意識に考えてしまうのだからやっぱり僕の中でかなり大事だってことなのかなとは思ってます。

でもこの大事って、どこまで行っても僕の中の大事でしかないです。僕が大事なだけで、他人が大事に思う義理はないし、「そんなこと考えるの時間の無駄じゃない?」と言われても、気分は悪いけど仕方ない。

好きでやってることだからなあ…と言うしかないし、逆に多様性の話に限らずこのブログに書くようなこと全部、「こういうこと考えるのが好きなんだろうな」という理由が一番適当に思える。

自分でもちょっと「この時間何になるの?こんなこと書いて意味あるの?お金稼がなきゃダメだろ、もっと他にやることあるだろ」って思うこともある(というかブログ書くとき毎回思う笑)けど、頭に浮かんでしまって、煩わされてしまっているのだから仕方ない。で、書いた方が考えやすいんだから仕方ない。たまに人からご意見とかご感想とかもらえて嬉しいし。

いや煩わされるって恋じゃないんだから…ってちょっと自分で思って、ああ、でも確かにそんな感じなのかもなって思う。

「丁寧に生きる」とかってワードもよく聞くこの頃だけど、その丁寧さって自分の中の大事なところ、自分はどう思ってるんだろう、何が好きで何が嫌いなんだろう?と掘り進める丁寧さみたいなものなのかなと僕は考えます。

考えれば考えるほど、自分の中も外も分からないことで出来ていることに気付き、複雑で、答えらしい答えもなく、意味も意義も意識しないままに煩わされている。自動的に考えさせられている。このときまた自我を疑うことになるし、自分はどこにいるのかと思ってしまうこともある。なによりこれが自我なのだと感じることもある。

「うまくいかなかった恋に意味はあるのか」

『ハチミツとクローバー』にBGMのごとく流れるこのテーマを思い出します。

「うまくいかなかった恋に意味なんてない」と答える人ってどれくらいいるだろう。

僕らうまくいかなければしないのか、実らないことはしないのか、無駄だと言われれば諦めるのか。結果が思わしくなかったら、そんなものに煩わされた時間は無駄なのか。

多分そんなことはないです。恋に限らず、どんなことも、そんなことはない、ことは分かるけど、じゃあどんな意味が?と問われると、答えることはできない。

それは自分で見つけるしかないものだし、煩わしい世界に自分がいることに意味を見出すには、たっぷり時間がかかるから。

多分この記事で僕が言いたいのは、例えばハチミツとクローバーを読んで、「うまくいかなかった恋に意味はない、なんてことはない」ということを知ったところで、「うまくいかなかった恋に意味を見出したことにはならない」ということだと思います。

ちょっとややこしいけど。

それは恋に限らず人生において煩わされるすべてのことに言えることで、答えを知るのも答えを出すもの簡単だけど、そこに意味を見出すのは時間がかかるし、時間をかけなきゃ絶対に得られないと個人的には思う。

書けば書くほどチープな物言いになるけど、「自分でやらなきゃ意味がないもの」があるはずだということかな?答えが分かっていたとしても、自分で答えにたどり着かなきゃ意味にならないもの…。

じゃあそれは何なんだって話になったら、やっぱ自分で考えるしかないし、考えるともなく考えていることがその答えだと思うし、それが意味のないことに思えたり意義を感じないことでも、そんな風に意味もなく意義もないままに考えてしまうというところに意味も意義もあって、例えば「恋は意義もなく意味もなく煩わされてしまうものだと思うけど…」と言われればある程度納得できるのに、その他のことになると急に無駄なことに思えてしまうのは何故だ、というのが今日の僕の意味なく煩わされた問題だよっていう、無駄にループ構造っぽくした記事がこれ。

意味もなく意義もなく煩わされる問題(完)

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