【岩尾内ダム周辺】岩尾内湖にかつての町の姿が現れる秋。似狭地区跡を空から見てみよう。

昭和40年に始まる岩尾内ダムの建設に当たって、水没地域とされた地域がありました。

ダムの建設のため、住人が立ち退かなければならなかった地域ということですね。

そこは似狭(にさま)という地域で、当時戸数170戸余、人口800人余。朝日町内の二つの市街地の一つとして栄えていました。

営林署、小学校、中学校、郵便局、駐在所、消防団詰所、診療所、農協支所、鉄工所、木工場、映画館、旅館、食堂、理容院、日用雑貨、食料品店まで、およそ町として必要なものはおおかた揃っている、充実した地域でした。

参考:『朝日町史』

映画館あるってすごいな。

そこは今、湖の底にありますが、ダムの貯水量が減る10月を目処に、秋以降は湖底が露出し、かつて町があり、人が生活していた場所を歩くことができるようになります。

そこにはかつて人々が行き交っていた道があり、工場の跡や田んぼの跡がところどころに残っており、生活用水路があり、橋の跡があり、生活の痕跡が溢れている。

僕はここが好きでよく行くのですが、散歩のついでに空撮してきたので、簡単に今(10月初旬)の様子をご紹介したいと思います。

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似狭地区に水が溜まっている頃

その前に、湖の状態の同じ地域をご覧ください。

短い動画ですが、水がしっかり溜まっていることが分かると思います。

秋の似狭地区

続いて10月の映像。上の映像とほぼ同じところが映るように撮影しています。

雲の影が陸地に過るところが美しいですね。

水があるときと無いときの違いがお分かりいただけたでしょうか。

「湖底に沈んだ町」とか、「条件が整わないとたどり着けない場所」とか、僕のRPG好きというかまだちょっと燃えている中二ごころ的なものをくすぐってやみません。

とりわけ草原地帯を越えた向こう側の、泥が溜まってる川底は乾いてひび割れ、それが広大な範囲で続き、独特の雰囲気を作っています。

朝日町史のダム建設の過程を見るとこんな風に感動したり面白がったりするのも水没関係者の方々には申し訳ないのですが、一方でやはりロマンを感じてしまうことは否定できない。

それに、それだけ時代が過ぎたのだからこんな風に見ても良いだろうという開き直りの気持ちもある。

いずれにせよここは綺麗で、一たび足を踏み入れれば飽かずに散歩できて、生活の跡と本当に町が一つ水没したんだという実感に慄くこともできる刺激的な場所です僕にとって。

誰にも教えたくないけど誰かに教えたいような場所。例えばこんなブログに訪れてくれる縁のある方には教えたいなと思う場所です。

おまけ画像

似狭跡 画面左側の中央付近に、田んぼの跡らしきものが見えます。

似狭跡2 砂漠みたいになってる。泥だけど

似狭跡3 湖の奥の方にダムが見えます

似狭跡4

道路は当時のままの姿で残っています

さいごに

水没関係者名簿のはじめに書かれている文が、朝日町史を読むたびに目につく心のこもった文だと思うので抜粋します。

地域の人々にとってここがどんなところなのかが表されていると思います。

人にはそれぞれ故郷がある。そこに住む人、離れて暮らす人、また戦後は外国となった人々もある。しかし、似狭を故郷にする人たちには永遠にその姿を見ることができない。一木一草、たとえ蓬家であっても家に、土に限りない思い出を秘めて今は湖底となった。昭和45年11月2日午後2時、えん堤最後の締切ゲートが下ろされて、新しい人生の出発に夢を描いて大きく羽ばたいた人、後ろ髪を引かれる思いで第2の故郷を求めた人、その人たちの楽しくも、苦しくもあった様々の人生模様を湖底に沈めて、岩尾内ダムは完成した。

天塩川上流総合開発という大義のもとに、小事を捨てて大事に自覚し終始ダム建設に協力した水没関係者の犠牲を基盤に、天塩川は自然の恵みを沿岸住民に与えながら永久に流れるだろう。

ここに水没関係者に感謝し、似狭を去った人たちの名簿を記す。

これ以降、名簿が記録されていますが割愛。

ここを歩けるってすごいことだなあ、と思う。その土地に足を踏み入れられて、生活の跡が見えるおかげで、僕のようにその地域の当時を知らない歳の人間でも「似狭という地域はあった(ある)」という実感が湧くもんな。

あと、ダムがあることで僕らが今受けられている恩恵についても改めて考えさせられる。

ダムがあるからこそここでは大きな災害もなく、作物も育ち、日々豊に過ごせるのだと思うと、水没関係者の方々の犠牲の上に今の生活が成り立っていることを忘れるわけにはいかない。

【田舎空撮】岩尾内湖にかつての町の姿が現れる秋。似狭地区跡を上から見てみよう。(完)

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