片思いはなぜ切ないのか/片思いマンガ『僕らはみんな河合荘』は切なさ控えめ

片思いと聞いて思い浮かぶ漫画は、まず『ハチミツとクローバー』。

王道にして傑作だと思う。

ところが今読みたい片思いマンガは『僕らはみんな河合荘』

単純に気分の問題です。コメディ強めで切なさ控えめが『僕らはみんな河合荘』

下ネタも多いけれども、綺麗な絵柄と相まって爽やかさが損なわれない良いバランス。

そもそも良い大人の僕から言わせれば、「片思い」はそれ自体がもう甘酸っぱすぎる。「片思い」って切なさを引き連れてくるフラグでしかない。切なく儚く散ってこそ片思い。

例えば、桜の花の美しさは散り行くことこそに美があって、その刹那性に愛しさがこみ上げる。

みたいな性質の片思いを描き切ったのが『ハチミツとクローバー』。だからちょっとそういう美学を知ってる大人の達観があってこその作品。

一方『僕らはみんな河合荘』は、まさに今桜が見ごろ、いやいや3分咲き?5分咲き?っていう段階の、満開を目指す、浮かれて期待して頭がぱやぱやしてる気分が追体験できる作品。

そっちの方が今は素直に娯楽として楽しめる。

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片思いはなぜ切ないのか

そもそも「片思い」はなぜ切ないのか。

それは、絶対に持続しない事柄だから、だと思うのです。

片思いの時間は続かない。

もちろん、片思いしっぱなしの人生もあるだろうけど、続いてしまったら片思いではなくなってしまう。

イマイチ意味分からんですね。

もうちょっと詳しく説明します。

片思いは「妥協の時間帯」

ええとまず、片思いってするからには、誰でもいつかその想いが成就することを望みますよね。

いわゆる両思いになることを望む訳です。つまり、本人にしてみれば片思いの状態が良いとは思っていない、決してベストとは思っていないということになります。

もちろん、だからと言って告白してフラれてしまったら、成就する可能性が無くなってしまい、それも片思いの終わりになってしまうので望んでいない。

つまり、片思いはいずれにせよ「妥協の時間帯」であります。

これが要素の一つ。

片思いは「停滞を望む時間帯」

片思いは、あくまで結果を出さないという「停滞を望む時間帯」でもあります。

ベストは両思いになることなんだけど、両思いになって気づくことがある。

それは、片思いの時間が尊かったということ。

例えばそれまでは、朝声をかけてくれただけで「うっわ今日最高!」みたいになってたのに、両思いになってしまったら幸せの閾値がグンと上がって、ほとんどのことが当たり前になってしまう。

声かけてくれたとか笑ってくれたとか心配してくれたとかそういう些細なレベルのことが、大きな大きな可能性であって希望になる時間帯だというのが片思いの楽しいところ。

結果を出さないというのは、けっこう娯楽的な楽しさがある。

両思いになると幸せの閾値が上がるなんて、子供で、しかも片思い真っただ中だったりしたら分からないと思うけど、告白してフラれるより些細なことで一喜一憂できる今の方がマシっていうメンタリティで片思いを楽しむことはあると思う。

片思いの切なさは持続性のなさに

片思いというのは「妥協」であって、「停滞を望む」時間帯だと思うのですが、世界の残酷なところは、そんなのを全然まったく許してくれないということです。

僕らがいくらこの時間が止まって欲しいと願ったって何にもなりません。

学校にいれば卒業とか会社でも移動とか退職とか、相手に好きな人ができるかもしれないですし、極端なことを言えば死というタイムリミットがある。

時間なんて観測しなければないも同然だと思うけれど、刻一刻と状況は変化して、妥協は妥協で済まなくなるし、停滞はいつしか後退と同義になる。

つまり、あくまで良い片思いはという前提ですが、片思いは必ず終わらせなければならない概念なのです。

終わるという前提があってこそ輝く。本当に桜の花を愛でる気持ちと似ているなと思います。

片思いは持続しない。持続しないからこそ尊くて切ない。

ところで『僕らはみんな河合荘』ってどんな話?

こういう僕の謎の分析を踏まえた上で、今読みたいのは『僕らはみんな河合荘』なのだという話なのです。

主人公である宇佐和成くんは、同じ下宿先に住んでいる同じ高校の先輩である河合律ちゃんのことが大好きです。片思いの相手とシェアハウスって最高ですね。

だけども律ちゃんは超文学少女で、本のことしか考えてない。

道を歩きながらでも本を読むほど読書家の律ちゃんに、宇佐くんの恋心はなかなか伝わりません。

律ちゃん恋愛方向にまったくアンテナが向いていないというか、文学の世界のことしか考えておらず、現実に対する熱意があまりありません。

ただ、内向的で無類の読書好きという以外は普通の女の子なので、恋愛的なものを意識的に避けている可能性もありますし、無頓着を貫いている可能性もあります。一言で言えば奥手な少女。

宇佐君は律ちゃんのことが好きで絶賛片思い中なんだけど、律ちゃんは性格が性格だし、文学に夢中になってるから、恋愛的な進行度はめちゃくちゃ遅いです。脈なしを突き付けられること数えきれず。

読者から見たら決して脈なしではないというか宇佐くんしかいないだろうって感じなんだけど、律ちゃんの中に現実の世界で恋愛をするという選択肢を芽生えさせるまでの道のりがやたら険しい。

しかも、同じ下宿人がやたら個性的な大人で余計なちょっかいばっかりするので、そういう意味でも進捗は超微妙です。

そういうラブコメ。

律ちゃんが本を置くとき

で、最初の方でネチネチと書いた通り、「片思いは持続しない」とするじゃないですか。

片思いは形を変えていかなければならない。もちろん宇佐くんも律ちゃんと両思いになることを望んでいる。そうじゃないと先輩である律ちゃんとは卒業を機に離れ離れになってしまうかもしれないし、他に好きな人ができないとも限らない。

でも律ちゃんは本にしか興味が無いから、正直安泰ではあります。ほっといても他に男ができるとは思えない。律ちゃんが恋愛をするとしたら宇佐くんしかいないだろうと思う。

だから、宇佐くんの目下のライバルは本であり、文学だということになります。

律ちゃんが本に夢中というのは、しかし巧い設定だなと思う。

そもそも文学というのが非現実的で、時間を止める性質のものだと思うのです僕は。文字は概念を固定するという役割を持っていると思う。

そんな難しい話はおいておくにしても、面白い本を開くとき、僕らの現実の時間は止まりがちです。

そう言えば律ちゃんが宇佐くんの声に反応したのを見て、「その本イマイチでしょ」とかっていうシーンがあったと思うんだけど、律ちゃん、面白い本を読んでるときは人の声が耳に入らないし、視界もほとんどオフになります。実にマンガ的な過剰なまでの本好き設定。

これはかなり象徴的な設定で、つまり、律ちゃんは現実の世界が進んでいることにまだ気付いていないっていう意味での、あの恋愛に対する無頓着だと思うのです。

だから、律ちゃんが本を置くとき、宇佐君の片思いは前進し、物語が進むわけです。

『僕らはみんな河合荘』が切なさ控えめな理由

ここまで話しておいてなんだけど、僕、『僕らはみんな河合荘』って先輩のうちで読ませてもらってるものだから、自分では持ってないんですよね。

前回先輩のところに行ったのはまだ7巻までしか出てなかったから、それ以降の話読んでないという俄かファンっぷりなんだけど、今日ふいに思いだして続きが読みたくて読みたくて…。

プライムビデオでアニメが見られるから見たけど、まだ一期だけだからそんなに進捗してないし。

今何巻まで出てるのかなと思って調べたら、8巻までのようで、読みたいなあって思ってるんですが、Amazonのレビューにこんなものがありました。

投稿者 東小鳥

あの律ちゃんが…コミックスカバーで本を持ってない!!!!!これは、完璧に恋ですね!一巻からずっと本を持ってたのに、ついに本が足元!!!もう、この時点でニヤニヤMax!!!

どうでしょう。

本を持たないということが恋愛にアンテナが向けられたという暗示になるってすごいと思いませんか。

え、てかマジで。マジで8巻から進展するんですか。

調べたらもうすぐ9巻出るようだし、もう自分で買って読もうかな。

『僕らはみんな河合荘』の何が贅沢って、律ちゃんのこの性質のせいでやたらローペースなところ。

つまり楽しい「片思い」を堪能するための作品と言って言い過ぎではなく、律ちゃんの文学に向かいすぎる性質がちょっと緩んで現実に目を向けたとき、目の前にいるのは宇佐君しかいないということについて、読者含め律ちゃん以外全員気づいてるから、片思いの終わりに期待感しかないところ。

ほんと、桜の花が開ききるのは今か今かって待っている呑気な朗らかさがある。

これはつまり片思いの終わり=物語の終わりになってしまうという寂しさはあるからそういう意味では切ないけど、片思いマンガとしては切なさ控えめでとても良い。

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