小説の必要性を考えると小説は死ぬ

小説を読む意味/なぜ僕たちには物語(フィクション)が必要なのか

という記事をかつて書いておいて何なんだけど、小説の必要性を考え始めると小説は死ぬなという感覚があって、この記事ではそのことを書こうと思います。

昨今では出版不況と言われます。

小説が売れない、小説を読まない。このままでは小説という文化がなくなってしまう。

そうなると小説が好きで、小説とお別れするのが嫌な身であれば、小説は想像力を養い~、心を豊かにし~などといろいろ小説の有用性を説きたくなります。

だけどドライに考えれば、本当に有用なものであれば、その有用性を説く必要なんかありません。無用だからこそなくなるのであり、なくなるということはいらないということです。

しかし、なくなるものはいらないものだと決めつけようとすると、やはり捉えられないものがある。世の中にあるものは要不要だけで決められているわけではありませんよね。

小説も、そもそも要不要で語れるものではないのではないか。

おそらく、小説が好きな人は小説が有用である必要性を感じていない、と僕は思う。それはある友人を指して「こいつは自分にとって必要か」と考えることに似ています。

必要だから友達なのではなく、また有益だから友達なわけではない。

もちろん、気の置けない友人が存在することで得られるものはたくさんあります。

しかしそのうま味の部分を殊更にあげつらって友人の存在を肯定するようなことを僕たちは普通しない。

あいつといるとこうだから、あいつが〇〇してくれるから、という理由で僕らは友達を選ばない。

その人が必要な理由を並べれば並べるほど、その人の必要性は損なわれるのではないか。

また、必要性を頼りにして存在を認めるなら、不必要になったときには無くなって然るべきだということもまた認めたことになる。

同じことが、「小説」でも言えると思う。

必要だからあるのではなく、有用だから読むのではない。ただ、有用だから読むのではない、と口に出すことすら何かを固定してしまいそうになる。不必要だからこそ価値がある、というようなことを言えば、やはり捉えられない部分がある(このブログではそんなことを書いたことがあるかもしれないけど)。

とにかく今の僕は思う。

小説の必要性を考えるとき、小説は死ぬ。

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小説はなくならない

そもそも、実感として小説がなくなるという未来は想像ができません。小説を書く人も、小説を読む人も、決していなくならないと僕は思う。

僕も小説を書くのも読むのも好きなんだけど、同志もライバルも多いなと感じる。

みんな分かっていることだけど、正確には「職業としての小説家」の地位が揺らいでいるのであり、出版業界が下火、紙の書籍が不振というだけです。小説は決してなくならないと思います。

現行の主流な売り方に無理が出てきたということであり、文学的なクオリティを高め続けながら、一作家が何万冊もコンスタントに売り続けなければならないことが無理なのであって、このスタイルが維持できないからと言って、小説文化の衰退とするのは、もしくは小説の消滅を仄めかすようなことを言われるのは、少々違和感がある。

確かに小説は娯楽としては不利な部分が多いと思う。小説を読まない人に小説を届けようとしたら、小説という形を諦めるしかなさそうだなと思う。

ただ、今まで育まれてきた小説はもっと強かで、生まれる場所を選んできちんと生まれるようになっていると僕は思います。

その生まれる場所の一つを作りたいと僕は思いながらブログを書いているのだけど、その話は長くなるので以下の記事などを読んでくれる人がいたら良いな、と思う。

みんなの書斎を作った理由

僕らは不安だからコミュニティを作るのだろうか

小説を書くことがリスキーでしかない

ところで、僕が小説を書き始めた頃に思ったのは、小説を書くのはダメだということでした。

小説を書いてどうなる。プロになれるほど打ち込めば全て棄てなければならないし、それでもプロになんてなれない可能性の方が高い。

当時20歳だった僕は、こんな当たり前の思考回路を巡らせて、小説を書くということから遠ざかりました。

しかし年齢を重ねるに連れて、書きたい欲は強くなっていくようでした。だけど依然、小説を書くことはリスキーなことでしかない。

ところが、プロになることだけが小説家の道じゃないし、売り方や見せ方にも幅が広がって来たこともまた、歳を経るに連れて時代を経るに連れて実感できることでした。いわゆる小説家とは違うかもしれないけれど、小説を書きながら生きて行くことは可能かもしれないぞと思うようになった。

今の状況でそんなものは妥協でしかないことは間違いありません。

小説の売り方見せ方も多様化しつつあり、小説家像というのも時代を経て変わりつつある(小説のためにも変わらなければならないと思う)とは言え、やはり商業出版というのは特別だと思いますし、自分の本が本屋さんに並ぶことを考えると素敵です。

何より、何だかんだ小説を読む人以外が、本屋さんに本が並ばない人を小説家と認めないような気がする。

そして少なくとも僕の場合、どうしようもなく憧れるのはどこか浮世離れした、空想の世界に住む作家先生であります。

意味のないものや無駄なものははじめから無いのと一緒なんだろうか

でも、頑張ってもそうなれないとしたら、もし頑張って小説家になっても、思い描いていた作家像と実態があまりにかけ離れていたら。

「はちみつとクローバー」のセリフを思い出します。

「うまくいかなかった恋に意味はあるのか」、「消えて行ってしまうものはなかったことと一緒なのか」

意味のなかったこと、消えて行ってしまうもの。

それはまるっきり無駄で、最初から無いのと一緒なのだろうか。

僕らの夢は。僕らの人生は。ひっそりただの空白になっていくのだろうか。

今のままだと、多くの小説がなかったものになる。多くの小説を書けるはずの人の時間や意思がなかったことになる。

そうなる可能性の高いものに打ち込むことは愚かなことなんだろうか。

そう考えるにつけ、やはり小説の生まれるところは多い方が良いと思いました。

もし、小説を書くということが暮らしに溶け込むような場所があれば、そしてそういう営みを見る見られるという関係が芽生える場所があれば、僕らはここまで小説に恋することに怯えなくて済むのではないか。

小説というものを組み込んだ、小さな市場があれば、安心できる人もいるのではないか。

説明が足りないので想像しにくいかもしれないけれど、普通に生きて、書くことに情熱を燃やせるような場所です。

暮らし、営みに溶け込んだ、小説の生まれる場所

この考え方が間違っている可能性もあります。

自分でも、それは結局価値の無いものに意味を見出して正当化しようとしているだけじゃないか、結局は要不要で物事を語ってしまっているじゃないかと思わなくもない。

だけど、本来意味の無いことに意味を与えるのが物語であって、物語とは、僕らの中にある納得の軌跡だと僕は思う。

僕らは無駄なことをするかもしれないし、あってもなくても構わない人生を送るかもしれない。誰にも認められず、褒められずに終わってしまうかもしれない。

僕らは僕ら自身の必要性を考え続ければ、死ぬしかないだろうなと思うのです。僕らも「必要」で「役に立つ存在」でなければならないのなら、消えてしまうことにも抵抗はない。

小説の必要性を考えれば、小説は死ぬと僕は思う。

僕らの人生はなくても良いのか。分からないけどそうは思わない。必要不必要を問われる社会の中で、当の僕らは、そういうのとは違う次元で生きている。

そうは思わない人間が紡ぎだすのが物語だと思うし、それは正当化ではなく納得の軌跡、であるとすれば、小説を書くことは僕らが生きることと同じ階層に属する営みだと思う。

暮らし、営み、交わって生まれるものについて考えます。そういうものの延長である物語を、救うと言えば傲慢だけど、拾い上げることができるなら、もしくは卵を温めるようなことができるなら、小説という文化にとって何かの足しになるかもしれない。

小説の必要性を考えると小説は死ぬ(完)

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