という記事をこないだ書いたのだけど、これは完全に僕が僕のために定めたルールで、なおかつ読む上のルールでなく、書く上でのルールでした。
「妻に二度読まれた小説は成功とする」という愚にもつかないもので、僕にとっては大事だけど、こうして不特定多数の方にあえて知らしめるような内容のものではなかった。
公開してからすぐに後悔したので(ダジャレじゃない偶然である)、少しは読む人にも有益になるような再読ルールを書けないだろうかと考えていると、そういえば中学の国語の時間、「読み方」を教わった気がするなあと思ったので、記憶の奥から引っ張りだして、天日干しして記事にしようと思います。
再読をせよというルールではなく、再読を促す読み方です。
テキストとして教科書にも載ってた宮沢賢治の『オツベルと象』が最適と思うので、一緒に『オツベルと象』を読み直していきましょう。
まだ読んだことないよ、という方は、青空文庫の『オツベルと象』のリンクを貼っておくのでぜひ。
Contents
表層読み、構造読み、主題読みは役に立つ?
さきにこの記事で「オツベルと象」をどんな風に読んでいくかを説明させてください。
ちょっとしんどいので 構造読みの方法 もしくは 『オツベルと象』で構造読みを実践する の章まで飛んでもらっても大丈夫です。
さて、これから書くことを簡単に言えば、一度目は物語のあらすじを読む、二度目は物語の構造を読む、三度目は物語の主題を読む、という読みの方法です。
それぞれ授業では、表層読み、構造読み、主題読みというような名で呼ばれていたと思うけど、定かではありません。
中学時代、この読み方を実践して思ったのは、まずつまらないということ。
なぜつまらないかと言うと、上記のような「読み方の定型」のようなもので簡単に整理できるような作品は少なく、汎用性の乏しい読み方をマスターする意義を感じなかったから。
また、学校の教材で使われるような小説は、全文が載っているわけではなく、ある一部分が抜粋されていることが多いので、物語全体の構造を掴むというのは最初から無理があるだろう、と思っていたから。
万巻の書を苦なく紐解けるようになるみたいな便利な読み方はなく、なんでもかでも機械的な理解ができるわけもない。
よってうろ覚えだし、おすすめするようなものではない。中学でこういう読み方の実践を教えてくれた先生がいたよという話です。
数回に渡り、視点を変えて読むという方法は読書を豊かにはした
その上で、この読み方をもう少し詳しく説明しようと思うのだけど、それじゃあどうしてそんな話をこの記事で書こうとしているのかというと、まったく無駄で意味の無いことではなかったという実感もあるからです。
短いお話だったり、分かりやすくテーマが提示されているお話、構造が比較的単純なものであれば、確かに(やや悪意のある言い方をすると)一辺倒な読み方でも浮かび上がってくるものがあること。
あるものを前にして、少し視点をずらす(今度はこっちからこう読むぞ)という態度を持つことは有益であること。ここで言う有益というのは楽しいということです。
語られ方にはある程度構造があり、構造があるだけに意図が含まれることがあるというのは読書を楽しくするきっかけにはなったこと。
実際、うろ覚えではあるけれど印象に残ってはいるから、楽しいと思う一面もあったように思います。
構造読みの方法
表層読み、構造読み、主題読み。
これを行う上で、難しいのは構造読みからだと思います。
表層読みは読めばいいだけ。何となくこんな話って知れば良い。
構造読みは、構造を読めというのだから、ちょっと戸惑いますよね。
国語の授業では、物語は「冒頭」、「発端」、「山場の始まり」、「結末」、「終わり」があると教わりました。そして山場の始まりと結末の間にはクライマックス(山場)がある。それを探すのです。
冒頭は物語の冒頭。最初の一文と思って良いそうです。
発端は事件が始まるところ。もう少し発端はここ!って具体的に探すサインとなるのは、二つ以上の勢力がはじめてぶつかるところ、らしいです。
山場の始まりは、クライマックスに向かう最初の点(ここは未だにピンとこない)。
結末は事件の終わり。
終わりは物語の終わり。
物語の基本はこのような構造になっていると教わりました。そしてこの構造から外れるようなことがある場合、それは作者の意図だと。起承転結なんて話もあるけれど、これはそれを国語の授業のためにもっと詳細に簡易にしたものだ、と言っていたような。
確かに基本があって、それ以外は意図してずらしているのだと言えばそれで一応まかり通るのだけど、例外の方が多くなってしまっているような気がするので、それはもう構造のルールとは言えないんじゃないか?という疑問はずっとあります。
とは言え、あらゆる物語は構造を持っているということには違いない、とも思う。
小さい物語のかたまりが大きな物語の発端に関わっていたり、ある逸話や噂がクライマックスで効いて来たりすることがあって複雑だけど、どれも小分けにしてみると、ある事件が誰かによって語られることは間違いなく、誰がどのように語るかという点には意図がある。
そういう意味で、構造を読むというのは楽しかったりもする。
『オツベルと象』で構造読みを実践する
前置きが長くなってしまいましたが、それでは、構造読みを実践してみようと思います。
国語の教科書にも(全文)載ってた、『オツベルと象』で冒頭から終わりまでマークしてみます。
もう一度青空文庫へのリンクを貼っておきます。短い話ですので、良かったら読み返してみてはいかがでしょうか。
冒頭は「オツベルときたらたいしたもんだ」で良いと思います。
「ある牛飼いがものがたる」だろうという意見もあろうと思いますが、とりあえず。
発端は「そしたらそこへどういうわけか、その、白象がやってきた」でしょうか。
発端は二つの勢力がぶつかるところですので、オツベルと象の場合、オツベルと象が出会う部分で良いと思います。
山場の始まりは「まあ落ちついてききたまえ。前にはなしたあの象を、オツベルはすこしひどくし過ぎた。」あたりかなあと思うのですがどうでしょうか。ここはクライマックスから逆算するしかないと思うのですが、クライマックスがもし「大挙して押し寄せてくる象の群れの場面」だとしたら、その事件の始まりとなるのはこの部分かなと思うのです。
結末は「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。白象はさびしくわらってそう云った。」でしょうか。
辛い労働を強いられる象が仲間に助けられたというのが、事件の結末というわけです。
こうしてみると、各文を抜き出すだけである程度話のあらすじにはなってるのが分かると思います。
終わりはどうでしょうか。これも「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。白象はさびしくわらってそう云った。」でしょうか。
それとも本当に最後の一文である「 おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。」でしょうか。
事件の終わり(結末)はどこだ問題
本当の物語の締めくくり、最後の一文は「 おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。」です。だからここを終わりとする方が気持ちとしてはすっきりする。
結末と終わりが同じでもいいじゃないという場合は、「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」で良いと思うんだけど、いや事件の結末と物語の終わりは違うだろと感覚的に思う方もいると思う。
だから終わりは「おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。」だ、と。
さて、しかしこの文、果たして必要でしょうか?
この記事では冒頭を「オツベルときたらたいしたもんだ」にして、とりあえず「ある牛飼いがものがたる」を無視しました。物語にとって必要かどうか僕には分からなかったからです。
しかし、終わりの一文の「おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。」
を終わりに設定するとすれば、「ある牛飼いがものがたっている」状況に意味があるからこそ、最後に放り込んで来た一文と思えます。
さて、ここでちょっと息抜きというか、外部リンクを紹介します。
というスレッドがあって面白かったんだけど、たぶんこの話、ある牛飼いが物語ってるっていう状況を、読んでるうちに忘れる人が多いんだと思います。
そういう意味で、僕も別に最初の一文も、最後の一文も、別になくて良いじゃんって感じてました。
だけど最後思い出したように、おそらく牛飼いの言葉と思われる「おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。」がある。たぶん話し込んでいるうちに牛が勝手に川の方へ行っちゃったんだろうと思う。それを描写する意味はあるのか。いや、あるに違いない。
構造読みから主題読みへ
物語の構造を見ていこうとすると、このように、あれ、この文って必要なんだろうか、いや書いてあるんだから必要なんだろうな、これが必要ってことは、こういう意図があるんじゃないか、という風に読みを深めて行くことができます。
そうすると、主題読みという領域に入っていく。
さて、「ある牛飼いがものがたる」という冒頭文と、最後の「おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。」がある以上、牛飼いの存在は物語にとって必要と、とりあえず考えます。
他に牛飼いが存在感を示すところはどこかというと、山場の始まりに設定した「まあ落ちついてききたまえ。前にはなしたあの象を、オツベルはすこしひどくし過ぎた。」に感じられます。
もしくはその直前の、「オツベルかね、そのオツベルは、おれも云おうとしてたんだが、居なくなったよ。」で、牛飼いが何者かに物語っているということを思い出させられる。
牛飼いだけでなく、聞き手の存在がうかがわれるところです。
聞き手にはセリフは与えられていませんが、牛飼いのこの言葉から、「オツベルはどうなったの?」「いまオツベルはどうしてるの?」と言った類の質問が投げかけられたことが伺えます。
聞き手はオツベルのことが気になった。そして牛飼いは、オツベルの話を続けた、ということになります。
ということは、この物語内の事件の結末は、オツベルに焦点が当てられるべきだと思わないでしょうか。
ところがオツベルの最期はこうです。
「オツベルはケースを握ったまま、もうくしゃくしゃに潰れていた。」
「早くも門があいていて、グララアガア、グララアガア、象がどしどしなだれ込む。」という風にさらっと物語は続きます。オツベルの死体も何もかも置き去り。すごくさらっとオツベルは死にます。まったく存在感の無い最期です。
だからつい、事件の終わり=結末を「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」の部分に定めて読んでしまう。
ここを結末とするのであれば、この話は、オツベルという人(象)使いの荒い人間に良いように使われて閉じ込められてしまった象がどうなったかというお話になります。
ひどい人間のオツベルは死に、象は仲間に助けられた。めでたしめでたしの話。
しかし違和感があります。それは、牛飼いに話を聞いている人間は、それを結末と見ただろうか、という疑問でもある。オツベルは?え?死んだ?いつ?え?みたいになりそうじゃないか。
さらに気になるのは、「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」のあと、「白象はさみしくわらってそう云った」と続くのです。
読者はおや?と思うのではないか。初めて読んだとき、どう思ったか覚えているでしょうか。なんか違和感があるなと思った方も少なからずいると思う。なんで象は素直に笑わないんだ?
さらに「おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。」という文で締めくくり、なんだかジメッとした終わり方になる。牛飼いにも哀愁のようなものが漂う。
オツベルと象とはどんな話なんだ?
オツベルと象はどんな話だったんだ?
やりたい放題に人をこき使った強欲なオツベルの末路の話、ではなさそうだ。
酷い人間に騙された可哀想な象が仲間に助けられた話、でもなさそう。
構造を見てみると、どちらかに焦点が当てられているわけではなさそう。
ああ、「オツベルと象」の話なんだ、と思い至ります。主題読みはしばしばタイトルを読むことでもある。
牛飼いは「オツベルときたらたいしたもんだ」を繰り返します。印象的な一文なので覚えている方も多いと思う。
これ、たまたま迷い込んできた象をうまいこと丸め込んで仕事させる「やり手」な経営者としてのオツベルの評価に見えるけど、それだけなんだろうか?と思う。
第二日曜の章では、牛飼いは少々大げさにオツベルを褒めます。
この章の頭では
オツベルときたら大したもんだ。それにこの前稲扱小屋で、うまく自分のものにした、象もじっさい大したもんだ。力も二十馬力もある。第一みかけがまっ白で、牙はぜんたいきれいな象牙でできている。皮も全体、立派で丈夫な象皮なのだ。そしてずいぶんはたらくもんだ。けれどもそんなに稼ぐのも、やっぱり主人が偉いのだ。
と言う。
そして章の最後にも
どうだ、そうして次の日から、象は朝からかせぐのだ。藁も昨日はただ五把だ。よくまあ、五把の藁などで、あんな力がでるもんだ。
じっさい象はけいざいだよ。それというのもオツベルが、頭がよくてえらいためだ。オツベルときたら大したもんさ。
素直に賞賛しています。
そして、やり手のオツベルの象使いの荒さは目立つものの、クライマックスに起こることも予想できそうなものの、象もこのときは喜んで働いているように見える。
オツベルと象の間に、信頼関係というか友情関係みたいなものがあるようにも見えないでしょうか。牛飼いの賞賛は、あいつらほんとうまいことやってたよな…みたいな、どうしてやりすぎちゃったかなあ、惜しかったなあ、みたいな懐古の雰囲気すらある。
それぞれの不合理
象はオツベルに頼りにされて嬉しかったし、オツベルは象に感謝していたのではないか。
少なくともそういう気持ちはゼロではなかったのではないか。
そう考えれば、「さみしくわらってそう云った」のも分かるし、やり手で賢いはずのオツベルが、大挙して押し寄せてくる象を前にしてもなお白象を閉じ込めようとした不合理な行動も何となく分かる。
「旦那あ、象です。押し寄せやした。旦那あ、象です。」と声をかぎりに叫んだもんだ。
ところがオツベルはやっぱりえらい。眼をぱっちりとあいたときは、もう何もかもわかっていた。
オツベルは何が起こるか分かっていました。破滅への予測はずっと前からついていました。
「済まないが税金がまたあがる。今日は少うし森から、たきぎを運んでくれ」オツベルは房のついた赤い帽子をかぶり、両手をかくしにつっ込んで、次の日象にそう言った。
「ああ、ぼくたきぎを持って来よう。いい天気だねえ。ぼくはぜんたい森へ行くのは大すきなんだ」象はわらってこう言った。
オツベルは少しぎょっとして、パイプを手からあぶなく落としそうにしたがもうあのときは、象がいかにも愉快なふうで、ゆっくりあるきだしたので、また安心してパイプをくわえ、小さな咳を一つして、百姓どもの仕事の方を見に行った。(※太字は筆者)
このような描写は次に引用するように、二度繰り返されます。よって意味があると考えられます。
「済まないが、税金が五倍になった、今日は少うし鍛冶場へ行って、炭火を吹いてくれないか」
「ああ、吹いてやろう。本気でやったら、ぼく、もう、息で、石もなげとばせるよ」
オツベルはまたどきっとしたが、気を落ち付けてわらっていた。(※太字は筆者)
これだけ予測もできていた、実際に事件が起きたときも冷静だった。だけど行動が不合理で説明がつかない。
本当にオツベルは慈悲もなく、うまいこと迷いこんできた象をこき使うだけのひどい人だったのか?
象はオツベルと働くことに些かも喜びを感じていなかったのか?
牛飼いは多分、そうじゃないということを知っていたのだと思います(この点に牛飼いを語り手にした意味があるのかも)。本当にオツベルがただやり手の仕事のためなら他人に酷いことも平気でできるような人なのなら、手放しで「たいしたもんだ」もないと思う。
なかなかうまくやってたけどバカなもんだよなあいつも、まあズルいことやってりゃバチも当たるさみたいな語り方にしててもおかしくないと思う。
だけど牛飼いはオツベルの無様な死に方はさらっと流して、なんとも言いようのない終わり方、というか、たぶん話を終わらせるために自分の牛の方へ眼をやって、「おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。」なんて言ったんじゃないだろうか。
両価感情に焦点をあてて
宮沢賢治『オツベルと象』ー社会を知ったあなたにもう一度読んで欲しい
という記事があって興味深く読ませてもらったんだけど、これも一つの読み方ですよね。
そしてタイトルの通り、読み直し、見直しを促す楽しい記事でした。
オツベルと象を習ったときは、「グララアガア」のヤツ、「ああ、サンタマリア」って言うヤツくらいの印象しかなかったのではないでしょうか。「のんのんのんのんやっている」とかも印象的。
でもある程度社会経験を積んでから読んでみると、ちょっと見方が変わって、切実な感想が抱ける。読み返すって面白いですよね。
オツベルと象の関係をブラック企業の経営者とそこに務める人に重ねてみることは確かにできますよね。
ただ、視点をズラして、もうちょっとうがったような読み方もできる。もしくはそういう読み方をしてみるのも一興である。
なんせまだ謎がある。象はなぜ寂しそうに笑ったのか、オツベルの不合理な行動、牛飼いの語りの態度。
こういうものを読み解くには、多面的に見る必要がある。
ここで留意したいのは、僕らの住む世界には両価性があり、僕らの中には両価感情というものがある、ということ。本の読み方が一辺倒で終わらない(読み返したら受け取り方が変わったりする)のは、僕らの人生が一辺倒な処理を許さないからだ、と思います。
実際、オツベルの支配から解放された象をブラック企業を辞めた人に重ねて考えてみることはできそうです。
周りはきっと優しい声をかけてくれる、よかったね、もう大丈夫だよ、ちょっとやつれたんじゃない?ゆっくり休みなよ、最低の会社だね、あんなとこ辞めて正解だよ。
「ありがとう」と言うかもしれないし否定のしようもないんだけど、やっぱりさみしく笑っちゃうようなことが、僕らにはあると思う。
確かに客観的に見てひどいところだったし、救いようもないし、バチが当たって当然だけど、でもあのとき嬉しかったんだよなあとか、上司の○○さんには本当によくお世話になったんだよなとか、社長も悪い人ってわけじゃなかったんだよなあとか。
そんなの口に出したらバカなこと言うなよ同情の余地なんかないよとか、洗脳こわ、とか言われそうだけど、捨てきれない感情があったりする。
ストックホルム症候群なんてのもありますもんね。
牛飼いにも遣り切れない感情があったのかも。かつてオツベルと一緒に働いていたのかもしれないし。
僕らのやることなすこと割り切れず、何が正しいか間違ってるかも決めきれない。そんなことがたくさんあると思う。はあ…ってため息をつくしかないようなことがたくさんある。
物語と、僕らの人生の物語性について
中学のときには、構造読みとか主題読みとかしんどーって思ってました。受験とか学力テストとかにもあまり使えなさそうだし、趣味としての読書の場面でも、構造読みや主題読みがうまくできるものは少なそう。
だけどこの歳になって、見る目を変えるとか視点をズラすことは大事だなと思うし、善悪や正誤を決めつけない態度って必要だなって思うことが増えた。
ある出来事を何度も噛みしめるような態度が、疑い続ける態度が、そして、さっそく筋の通らないことを言うようだけど、ときには思い切って決めつける勇気(先ほどリンクした記事の読みにはこれがあった)も、僕らには必要だったりする。
何に必要なのかと言うと、少しでも自分の人生に納得を与えるため。感情で生きる僕たちが、感動の総量を増やすために。
僕らは大好きなものを邪険に扱ってしまったり、大嫌いなものに遜ったりしてしまう謎を持っている。死にたいと言いながらご飯のこと考えたりする矛盾と呼べるような柔軟さも、幸せを恐れる不合理さも持っている。
割り切りようがない現実を、割り切らないまま納得するには、何度も繰り返し考えるしかないような気がする。何度も読み返して、疑って、なんでだろう、どうなんだろうって考える。矛盾を矛盾のままに受け入れる度量みたいなのも必要かもしれない。
確かに、テストの場面ではまったく役に立たなかった。小説をテストで丸ごと読むなんてことはないし、大学に入って一冊の本を読んで授業を受ける機会があっても、無意識にしていたのかもしれないけど、実感として「構造読みを覚えてたからA取れた!」とかそんな進研ゼミみたいなことはなかった。
だけど芥川龍之介の本貸してくれたのあの先生だったなとか、「京の五条の糸屋の娘~」ってやつ超繰り返し歌わされてまだ覚えてるなとか、そういう記憶があるから、こんな七面倒くさい読み方も無下にできないで、こうして記事にしたら意外に楽しくなっちゃって、こんなに長くなってしまった。
捨てきれない感情は多く、思惑は入り乱れて謎めいている。
だから物語は何度か読むと面白くなることがある。
僕らの人生も多分そう。ある視点から見た物語と、また別のある視点から見た物語はきっと様相が違う。その中で、僕らはどんな解釈を選び、どんな納得をしていくのか。
そういうことを考える土台になった国語の授業だったと今は思います。
【宮沢賢治】構造読みで『オツベルと象』を読み直す(完)
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