情熱と個性と蹄鉄屋

極端な話、蹄鉄屋さんが町にいて、蹄鉄屋さんが普通に生きていけたら良いと思う。

なんで蹄鉄屋さんなのかというと、このブログで地味に行っている、「自分のまちの歴史研究を基に小説を書く」というチャレンジの過程で、祖母とそんな話をしたから。

「最近よくあんたと昔の話するようになったけど、そう言えば昔は蹄鉄屋さんがいたって思い出したよ。馬を持ってる人がいっぱいいたから。他にもいろんな職業の人がいたよ」

僕は思った。極端な話、蹄鉄屋さんが今も普通に生きていける世の中が良いんじゃないか。

蹄鉄なんて普通の人は使わないし、ニーズがないから普通どこの町にもいるような職業じゃない。だから昔のようにその辺にいるような人じゃない。

何も蹄鉄屋さんに限らず、現代ではあまり多くの人に必要なく、いわゆる食っていけない仕事でも、蹄鉄づくりに美学を感じるのであれば、その人は蹄鉄を目いっぱい作る人生を送れる世の中が良いなって思うのです。

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社会に存在を許される身

あえて嫌な言い方をすれば、僕たちは「社会によって必要かどうかを判断される身」だと思います。

自分がこうしたいと思うことをやって、それでごはんを食べられなければ、その人は死ぬしかない。その仕事で食えないってことは、社会に必要ないってことだから。

もちろん死ぬしかないことはないけど、生きるためには自分がこうしたいと思うことは諦めなければならない。

もっとちゃんと言えば、「好きなことは社会の役に立ってからやる」という、控えめに言ってもつまらない人生観に迎合する必要が出てくる。

好きなことで生きている人でさえも、公の場では「好きなことをやらせてもらってる」みたいな言い方をしなければならない。

僕らはどこまでも社会的な動物であり、関係性の中にのみその存在を許されている。

でも僕は、人はただそこにいるだけで役割を負っており、絶対に何かの役に立っていると思っている。

これは無暗に「価値のない人間なんかいない」と言ってる訳ではなく、僕らはお互いに自分の都合で利用し合うのだということ。

みんな自分が主人公なんだから、会う人会う人、この人は俺に有益だから「頼りになる先輩」、このクズ人間はたまに会うと優越感を持てるから「面白い友達」みたいな感じで役割を与えてしまう。無意識に。

だから僕らはたいてい、社会では多くの役割を負っている。

「それじゃ食ってけない」が水を差す

何が正しいとか間違ってるという話ではなくて、単純に色んな人がいれば良いよなと思うから、僕は蹄鉄屋さんが町にいてほしいなとか思う。

繰り返すけど蹄鉄屋さんに限った話じゃなくて、他のどんな行為でも良くて、その人が今情熱を注げるものに情熱を注いでいるという状況を許される世の中を見てみたい。

今はITが発達して、個人の発信力が強くなってるから好きなことをしてても稼ぐ手段があるとかそういう薄い話じゃなくて(そういう話でもあるけど)、ケータイもパソコンも持ってない蹄鉄屋さんが、自分の作業小屋で、文字通り蹄鉄を作るだけで満足するような人生の話。

そういう人生が特殊なものではなくて、現代の一般的な生活から取り残されるのでもなく、ごくありふれた、普通の人生の一つになるような。

つまり、「食ってけない」っていう理由で情熱の炎に水をぱしゃーってかけるような無粋さがたまに憎たらしくなる。

いま一番情熱を注げるものに注ぎたいだけ力を注げる状態

情熱と言うと暑苦しいかもしれない。哲学とか言っても良いかも。

でも僕が言う情熱って別に情熱大陸の題材になりそうなギラギラしたものじゃない。僕がそもそも内向的な性格だし、情熱と言っても頭の芯にいつも引っかかってる何かみたいなもの。

もっと哲学っぽく言えば、「自分はこれを好み、こういう選択をする」という判断の芯みたいなもの。

僕の場合、ちょっとだけ人よりメラメラしたもので具体的に言えるものであれば「書きたい」という感情があるけど、そういうのだって実際は大人しいものです。

キャンプファイアー的に燃え上がってるイメージではなくて、ずっと芯が熱い炭みたいな感じ。触ると割と熱くて、風が吹くと赤くなるよみたいな。

情熱を傾ける何かって言っても人生かけるとかじゃなくて、自分の中の流行とかもあるだろうし、それが子育てとか、起業とか、研究とか、創作とか、コロコロ変わる人もいると思う。もっと消費的なゲームしたいとか買い物したいとかスイーツ食べたいとか。

そういう人は移ろいやすいという情熱や哲学を持ってるのかもしれません。

とにかくここで言いたいのは、僕ら一人ひとりの頭の芯にあって常に発熱してる何か。誰かに与えられた役割ではなくて、芯となる何かを守れると良いよねという話。

自分で選択したものに注ぎたいだけ力を注げるという状態は楽しいから。

これは僕がひたすら好きなことやってたいから言ってる、言わば自己肯定のための記事だけど、本当に素朴に今一番熱中したいことをするのって何で「社会」を前にすると難しいんだろうなとも思う。

僕は一人ぼっちである

どうしてこういう記事を書くのかっていう動機部分をもう少し穿って考えると、やっぱり僕の好みの問題に行きつくんだけど、単純に自分以外のことは分からないという自然な状態をもっとよく把握したいというのもあります。

例えば、どこか適当な家にピンポンして、出てきたおじいちゃんを見たら、ああこの人は年金暮らししてる一人暮らしの方なんだなとかって判断すると思う。

また別の家でピンポンを押すと、赤ちゃんを抱えた女性が出てくる。ああこの人は専業主婦かもしくは育児休暇中の奥さんなんだなとか、シングルマザーだなとかって判断できると思う。

僕らこんなんでその人のこと知った気になっちゃう。そして勝手に役割を与えてしまう。

「こういう人の暮しはこうだ」みたいな決めつけや期待をしてしまう。

その人の職業とか年齢とかでその人のことを既存の社会的なカテゴリーに当てはめて、あそこにはああいう人が住んでるって分類する。だって社会に求められる存在としての情報ってその程度でしょう。

それは社会的な動物として間違ってはいないしそれ以上を知る必要がないと言われればそれまでだけど、なんていうか、隣のあの人は自分とは全くの別人で、自分が考えてるような枠に収まらない人で、オリジナルの情熱や哲学を抱えて生きているのだという当たり前の未知に鈍感になりたくない。

あの人と僕は当たり前に違う、自分とは違う世界に住んでる、僕は一人ぼっちである、そんなことを日々実感したい。

さっき「もっと色んな人がいればいいと思う」とかって書いたんだけど、それはこっちの認識の話。

普段ボーっと暮らしてたら、世の中には色んな人がいる、一人ひとり全然違うってことを忘れてしまう。実際にはもう十分すぎる程、世の中にはいろんな人がいる。みんな自分の情熱や哲学と言った芯となる何かを持ってる。

でもそういう多様性って、表に出てくることはあまりないんじゃないか、って僕は思う。芯なんだから当然と言えば当然だけど、見えるのはいつも外側の当たり障りないところだけ。

そして自分の観察眼や創造力や経験の無さを棚に上げ、それって「社会」の性質のせいなんじゃないかとか言っちゃう。社会のせいなところもあると思うけど、それだけじゃない。

だから僕のまちには蹄鉄屋さんが必要だなって思う。

こういうの分かってくれると嬉しい。

情熱と個性と蹄鉄屋(完)

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