「極端な概念同士は極端であればある程互いに似通っていく、というか限りなく同じ意味になっていく」という仮説からこの記事は始めます。
夏目漱石が至った境地「則天去私」は客観性を保ちフラットな思考をするための創作論
では「則天去私」と「自己本位」という夏目漱石の創作上の思考に言及した上で、これらは正反対のことを言ってるようだけど実はコインの裏表のような関係であって、どちらも「自分」をよく知るための思考だろうという話をしました。
これとよく似た例というか現代版のもっと取っつきやすい例として、グーグル社とアップル社の哲学についての面白い文章が『THE PLATFORM IT企業はなぜ世界を変えるのか?』に書いてありました。僕はkindle版を読みました。
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グーグルの哲学、アップルの哲学
『THE PLATFORM』によると、グーグルの哲学とは「マインドフルネス」だと書かれています。一方アップルの哲学はかつて広告コピーとして使われた「シンク・ディファレント」だと。
ではまずマインドフルネスってなにかと言えば
機械ができることは機械がやり、人間にしかできない、今、目の前にある現実やそこに広がる可能性に集中してもらう――その発想こそがマインドフルネスです。
グーグルの目指す世界は、あくまでも人間が選択肢を増やして、能動的にいきられる手助けをすることです。その美学が余計な手間の自動化であり、マインドフルネスという哲学です。
と書かれています。この哲学があるからこそ、(失敗はしたものの)グーグルグラスの開発や、自動運転車の開発に乗り出したのだと言います。
じゃあアップルの哲学である「シンク・ディファレント」とは何か。
そのまま訳せば「ものの見方を変える」ですが、この言葉には「誰かと違う自分だけの考えを持とう。そのための助けをするのがアップルなのだ」という彼らの強い共有価値観が込められています。
と書かれています。さらに
一九九七年の「シンク・ディファレント」から二十年弱の時が経ち、近年のアップルが持つ製品哲学や共有価値観はさらに深みを増していると私は感じております。
と続きます。
さらに深みを増したアップルの哲学とは
ipadのコンセプトビデオにその深みは凝縮されていると言います。
アップルの哲学を読み解く上で、『THE PLATFORM』ではビデオ内で引用されているウォルト・ホイットマンの詩に注目します。
人生の意味、私たちは一体何なのだろう。
そう言った我々に与えるともなく与えられた問いに、自分たちがこの世を織りなす全体の一部であるということ。自分がいて、命があることそのものが答えなのだという詩です。
そして、では「あなたの詩とは?」というアップルからの問いで終わる。
この世界全体が一つの、かつ連綿と続く壮大な物語(→力強い劇)だとすれば、僕たち一人ひとりはそこにverse(詩)の一編を寄せることができる存在である。
私たちの生命は、壮大な芸術の一部であろうとする情熱を持っていて、アップルはそういう価値観を表現しようとしている。
引用すると長くなるのでリライトしましたが、こんな風に『THE PLATFORM』は展開します。
そして面白かったのはここから。
英語の「verse」に「単一の」という接頭辞の「uni」を付けると、「宇宙」などを意味する「universe」という言葉になります。これをふまえると、「ヴァ―ス(verse)」は人類という一つの宇宙を形づくる一人ひとりの「あなただけの小宇宙」とも言えるかもしれません。
「シンク・ディファレント」以降にアップルがたどり着いた哲学。それが「ユア・ヴァ―ス」という言葉に込められているのです。
両極端の哲学と錬金術
グーグルの哲学である「マインドフルネス」が「自己本位に世界を捉えること」だとしたら、アップルの哲学である「シンク・ディファレンス」は「大きな世界の中の一部としての自己」と考えることができます。
なんか差異を説明しにくいのですが、前者が「自分ありきの世界」だとすれば、後者は「世界ありきの自分」という感じ。見方は極端に違うけど、やることは同じというか。
だから夏目漱石の「自己本位」と「則天去私」の思想に似てるなーと思ったのですが、それよりこういう話になると、『ハガレン』ファンとしては錬金術の思想を思い出します。
全は一、一は全。
全体は一の連なりで成り立っており、一はそれだけで完成してもいる。
そして錬金術の本質は「循環・完全性・永遠」を表す「円」で説明できるところがあります。
全ては関連し、繋がっている。同時に、全ては独立して存在している。全てが始まりであり、全てが終わりである。この矛盾する論理をまるっと解決するのが、円の構造という訳です。
「両極端な概念は限りなく同じ意味になるんじゃないか」と最初に書きましたが、例えば紐の端と端を繋げて円を作ろうとすれば、最も遠かった一点が隣り合わせの位置になり、客観的には同じ個所に収束するということです。
両極端はほぼ同義の例
この両極端はほぼ一緒という考えは意外にたくさんのことに見られて、身近なところで言うと例えば文章を書くとき、「たった一人のために書いた記事が結果的に多くの人に響く」とかだってそうかも。ん、なんか違うかな?まあ気持ちは分かってもらえるんじゃないかな。
もっと概念的なことを言った方が分かりやすいかもしれません。例えば
1、「個別具体的な出来事の中に普遍性が宿り、超抽象的なものに具体性が帯びる」
個人の話である小説の中には普遍性があるので共感できて、ありきたりなラブソングからは具体的な自分のエピソードが思い出せるので共感できる。具体も抽象も行きつくところは一緒ということ。
2、「何も持っていないことは何でも持っているということ」
何も持たないということは失うモノはなにもないということだし、全てを持っているということは必ず誰かに分け与えることになるので、所有という概念が曖昧になる。状況・心境は何も持っていないことと何でも持ってることはほぼ同じ。
3、「完全な自由は不自由に似ている」
自由って言われると逆に何していいか分かんねえってヤツ。
どうだろう。よく読むと粗が見えそうなので止めてほしいですが、言ってることは伝わるはず。そしてこういう例はよく考えればいっぱいありそうではないでしょうか。
あと、以前書いた 羽川翼の話をしよう という記事も、「一番まともが一番異常なんだ」ってことを書きたくて書いたものです。
さらに欲張って言えば、「均一化を目指す社会であればあるほど個性を求める」という矛盾する感じを整理したくて なぜ僕らは個性を認めてほしいのだろう。を書きました。
閉鎖空間のまちづくりの可能性
結局のところ何が書きたかったのかと言うと、やはり「まちづくり」やコミュニティデザインに絡めたことです。
上の「両極端は同義」例集に付け加えるとすれば、「超閉鎖的な空間は開放感を生む」のではないかということ。
自分の部屋が一番落ち着くわーってヤツです。
「まちづくり」=「コミュニティとそれを構成する人間の満足度」を考えたとき、必ずしもオープンな(公共に好まれる)場である必要はないのではないか。
今後、世の中に求められるのは、自分のアイデンティティを満たせる場所、自分本位に生き、自分のヴァ―スを寄せられる場所だと思います。
もちろんそれが田舎だとは言いません。都会でアイデンティティを満たせる人、田舎でアイデンティティを満たせる人と色々います。それはそれぞれの選択で、どこにフィットするのが自分らしいかは自分で決めることです。両方良いと言う人もいるでしょう。
しかし、目指す到達点が同じ(生命の充実、自分らしさを満たせること)だと仮定すれば、地方は活性化という一種の都会化を目指すよりも、対局にある田舎的な閉鎖空間にある風景やあり方を維持することを考えた方が近道な場合もあるんじゃないか。
んー田舎的な閉鎖空間と言うと語弊があるかもしれません。
地方が衰退しているからと言って成長だ向上だ移住者増だと「外から見た良い地域」を形作るよりも、誰一人目もくれない閉鎖的な空間で、「内面的な充実の在り方」というところを苦心して考えた方が良いのではないかということ。
「世界ありきの自分」↔「自分ありきの世界」というキーワードと照らし合わせて考えてもらえば少しは分かりやすいと思うけど、それは哲学の問題であって、言わばグーグル的か、アップル的かという話。
両製品共に僕らの「生命の充実」に寄与するのと同じように、哲学やあり方は両極端と言う程に違っても行きつくゴールは同じだということ。
それならわが地域はどっちが適しているのだろうかということ。