エンタメ小説はアトラクション、純文学小説は散歩

自分がエンタメ小説を書きたいのか、それとも純文学を書きたいのか、分からないです。

ただ個人的にはどちらと決める必要とか、両者を分ける必要はあまりないと考えていて、書きたいときに書きたい方を書く、もう少し言えば、書いたあと、自分なりにエンタメ寄りだな、文学寄りだなと何となく思うだけで、あとはもちろん読んだ人の評価があるだけだとも思う。

例えば、最近書いた短編小説では

趣味の警察』がエンタメ寄り。

子どもが落ちやすい雲梯』が純文学寄り。

だと思います。

でもね、思うのです。エンタメって言うほどエンタメか?純文学というほど純文学か?

どちらにも振り切れていないのではないか?

それって自分が何を書いて、人にどういう体験をしてほしいかが定まっていないからなんじゃないか?

エンタメ小説と純文学小説の違い?

そもそも分かってるようで、分かってない。

一体どのレベルで両者を分けるのか。

あらすじでだいたい決まってしまうのか、地の文の詩性とも言うべきものに決めてがあるのか、会話か、キャラクターか、題材か。獲った賞によるのか、作家の性格によるのか、映画化してヒットするか否かで決まるのか、書かれた時代によるのか。

このように考えていくと仮にエンタメ小説とはこうで、純文学とはこうと定めたとしても例外はいくつもあろうし、特に決まってないんだろうな、ふわっとしたものなんだろうなと思う。

それに、純文学とされていたものが現代ではエンタメとしてアニメや映画という形でリバイバルされたりなんてこともあるだろうし、やっぱりこれらを分ける決定的な何かが分からない。

例えば日本酒の甘口辛口の違いが、一応定められてはいるものの、結局は飲む人の主観によって決められるのと同じようなものなんじゃないか(※ずっと前何かの番組で佐々木蔵之介が言ってた、飲む人が辛口って言ったら辛口、甘口と言ったら甘口なんですよみたいなことを参考に知ったこと言ってます。僕は下戸です)。

こういうことを考え出すといつも自己肯定に結びついてしまうのが自分の嫌なところです。

やっぱり、そもそもふわっとしたものを相手に、自分はこうだ!と決めてかかる必要もないんじゃないか。こうだと定めてしまうと、創作における想像力のようなものが硬直してしまうのではないか。だから余計なこと考えずに書きたいことを書きたいようにまず書くべきなんだ。

あと、こういう創作論的なことを考えるといつも同じところに行きつきます。

いやてか普通にどっちも書けよ。書けるものを書けるだけ書いてもう何も出ませんという域に達してからこういうことは考えろよ。考えずにひたすらかけば自分がどういう者なのか分かってくるよ。気楽なブログに逃げてないで今すぐ書けよ。

ちょっと余談だけどこれ語学の勉強とかでもこういう感じになりますよね。いろいろな勉強法があって、どうすれば効率よく向上できるかっていう理論的な部分をこねくり回して要領よくやりたくなるけど、まず買ったテキスト制覇してから言えよ、単語帳覚えてから言えよと自分にツッコム感じ。そんで何だかんだどんなやり方でもいいからかけた時間と数が物を言うことに気付いて、よし、とにかく、とりあえず、続けられることをやろうみたいに思う。

でもこの沼は深くて、とにかく続けることが大事だから、楽しくできる方法を探そうとか考え出す。自分けっこう海外ドラマとか好きだしなー、これなら自然に触れられるなーとか考えて、確かに海外ドラマは楽しいしずっと見てたら分かるようになるんだけどこれ本当に勉強になってるか?って急に不安になって、やっぱネイティブと話す機会がないとって会話アプリとかなんかそういうの探して、どれが一番お得で評判良いかみたいなことを見極めるのに時間かかってやってる感だけはすごいある、みたいな。

余談長くなっちゃったけどあると思うんですよね。僕も英語勉強しようって思ってもう10年くらい経つわけだけど、今は好きなホラーストーリーなら楽しく勉強できることに気付いたは良いけど実用性の無さに笑っちゃってる状態です。

話を戻して小説の話なんだけど、創作の場面でもこういう愚かしいことが起こるわけです。

そしてその愚かしさを今実況してるような形になるんだけど、まさに今僕は書くべきものも書かずに、エンタメとは、純文学とはみたいな、別に強いて僕が考える必要もなさそうな思考にからめ捕られてしまっている。書けない理由探しみたいなもので、逃げでしかない。

結論は出てる。いいから書け。頭の中にあるものを素早く文字に変換して、体裁を気にせず吐きだせ。結局書きたいことを書けるようになるには、これしかないのだと思う。

でも英会話と同じで、自己満足ではいけないんだろう。相手に伝わらなければ意味がないし、反対に不器用でも相手に何かが伝わったならそれはたいていの理屈を越える。

いずれにせよ伝える意思は必要で、その意思は思考にも行動にもかかってる。

だから、最初の方で書いた、「人にどういう経験をしてほしいか」を考えるのはやっぱり大事なんだろうと思うのです。

迷わずやれも一つの真理ではあるけれど、同時に迷わなきゃいけないし、悩まなきゃいけないのだと思う。

「ゆっくり急げ」みたいなことなんじゃないでしょうか。

じゃあエンタメ小説と純文学は、それぞれどんな体験なのか。

言葉にしてしまえば当たり前のことかもしれませんが、エンタメはアトラクションであって、純文学は散歩なんだと思います。

例えばジェットコースターやお化け屋敷に入ろうと思うとき、僕らはある程度どんな経験をすることになるのかを予め知っています。どんな楽しみがあってそれに乗り、そこに入るのかが分かってる。

分かっていて、自分の中の何か、例えば心臓や肺のような、生々しい肉体を使うためのもの。

何者でもない自分の肉体を使って、血圧を上げたり、呼吸を深くしたりする。

エンタメ小説を読むと僕は自分の身体の機能を感じる。

一方お散歩はと言うと、アトラクションのような体験を求めてするようなことではないはず。

風の温度を感じたり、雲の動きを感じたり、季節の匂いを感じたりする。

多分身体の表面にある、五感を使う行為なのだと思う。

だから自然と文章も細部に渡り、五感に訴えるように書かれることになる。僕は純文学と呼ばれるものを読むと自分の身体の感覚を感じる。

それらしいことを書いてみたけれど、一面的な分け方ではあるし、やっぱりエンタメと純文学を分ける必要性について僕は懐疑的です。

アトラクションに身を委ねたときにヒリヒリとした肌感覚を抱くこともあろうし、ぷらっとお散歩に出て心臓が高鳴ったりすることもある。

だからこの二つの区別はやっぱりふわっとしていて、主観に委ねられているところが大きい。

その人のコンディションに依存する部分も多い。

ただ、だからこそ小説を書くときには、やはり人をどちらに誘っているのかを、少なくとも意識した方が良いのかも。

アトラクションに誘っているのか、お散歩に誘っているのか。

自分はどんな口上でその人(読者)と一緒にいる理由を作るのか。

その上で、裏切りや、驚きや、トリップ感があれば、きっと面白みにもなるんだろう。そういうのが無ければきっと、心臓も嗅覚も動かない。

誰かの「生」に甘えているのだ。

うんそうに違いない、ここまで考えれば、何となく指針が安定したように思える。

だけどまだその指針を信じて良いのか分からない。

根拠のない自信の無さを抱きながら、でも進まなきゃもっと不安だから、この後とりあえず何か書こうと思います。

エンタメ小説はアトラクション、純文学小説は散歩(完)

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