僕らは今「ありのままに」、「自分らしく」生きることができているのか。

「自分らしく、ありのままに生きる」

こんな言葉に出会ったとしたら、たいていの人は悪い気はしないと思う。むしろ「自分らしく生きること」こそが人生における至上命題であり、誰もが「ありのまま」の自分を認めてほしいといつも考えている。あと『アナと雪の女王』をちょっと思い出すかもしれない。

だから当然、誰かがそう思うなら応援するし、自分もそうあるべきだと思う人が多いかも。

だけど、冷静に考えて、この社会は誰もが自分らしくありのままに生きることなんか許容していません。

犯罪に並々ならぬ興味を持っている人、感情の起伏が激しい人、正しい言葉遣いや礼儀を知らない人、定職に就こうとしない人、貞操観念が薄い人、責任感が乏しい人、きまぐれに行動を起こす人、他人に興味を抱かない人、意志の弱い人、誰の役にも立とうとしない人、変な実験に精を出している人…挙げればキリがありませんが、こんな人でも「ありのまま」で良いと世間は言うでしょうか。

「自分らしく生きる」とか「ありのままの自分」という言葉には何となく陽性な印象があるかもしれないけど、それは上に列挙したような具体的な事柄やパターンを巧妙に省き、「鬱屈した精神を解放すること」や「しがらみから逃れようとする」ような、自分本位でありながらあくまで向上を前提にした人にのみ使うことが許されている呪文のようです。

でも「自分らしく」って、「ありのまま」ってそういうことなの?

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美点で覆わなければ直視できない僕らの欠点

自分らしくとか、ありのままって言葉がなぜ陽性のイメージを持っているのかというと、「欠点をさらけ出す」という発想や行動が僕らの中では(最近特に)美点だと捉えられているからだと思います。

欠点をさらけ出すということは誤りを認めるということと似ていて、それは美徳に数えられる類のことで、その時点でほぼ自動的にマイナスがプラスに転化されるから、ありのままの自分というのはそれだけで容認される傾向にある。

これは言ってしまえば暴論で、前回の

ほんとに自分が嫌になる!僕たちが自己嫌悪に陥るのはなぜ

のテンションを踏襲している故の発想かもしれません。

「ありのままの自分なんて一般的にロクでもないもの」だろって僕が思っているから、「ありのままの自分」=「ダメな自分」って図式です。

それを隠す(-)とか誤魔化す(-)のではなく、公開し(+)解放する(+)ことで、疚しさや罪悪感や虚栄を清算するという潔さが社会で容認されてるだけだろって思う。

「自分のこういうところマイナスだと思ってるんですよね」ってさらけ出すことで「そこに気づいただけすごいんじゃん?」みたいな評価が得られるっていう。懺悔すれば許しますよ的な。

でも待って。例えば「知性を隠しながら生きる」とか「美貌を隠しながら生きる」人もいるかもしれません。

何らかの強迫観念やトラウマを抱いていて、本当の自分の力を発揮しないようにしている。そういうパターンもあるじゃないか。

でもこれはプラスのものを解放するのだから結局ただのプラスです。

僕らが容認する「ありのまま」って言うのは、ただ開き直るということではなく、欠点を認めた上で解放するという行為でプラスに転じようとする意志だけなのかもしれません。

僕らの現実は所詮陽性のものしか許容できないのでしょうか。

肯定という名の否定でマイナスが直される

陽性のものしか認めないモノサシで自分を評価するとき、それでもなお、本当の意味で「自分らしく生きる」なんてことは可能でしょうか。そもそもがマイナスだらけの僕たちが。

プラスにプラスをかけてもプラスだから良し。

マイナスにはマイナスをかけてプラスにしましょうってよく意味わかんない手続きがされて、どうしてもマイナスになっちゃうものは切り捨てましょう否定しましょうみたいな場所では、「そもそもありのままの自分なんてロクなもんじゃないだろ」と思ってる僕にとってありのままの自分を認められてる感じなんか全然ない。

僕こういうところダメなんですよー。ダメなんですよねー。って言ったら、誰かが「ハハ、おもしろーい」とか言って、僕はこういうところが未熟だと言えば、「伸びしろがあるってことじゃん」みたいな励まし方をされて、人付き合い苦手なんすよねって言ったら「私も苦手だよー」とか言って、肯定という名の否定を食らう羽目になる。

それ全然マイナスじゃないよ!って、自分の内面を口に出した途端、ダイナミックに陽性に修正される。

そもそも否定とか肯定とかそういう話じゃないかもしれないけど、評価することなしに僕らは物事を見るなんてなかなかできなくて、そこがもどかしいんだけど、評価するからこそ意見みたいなのが生まれて、そういう意見の塊がその人となりを形作り、個性になるとしたら、陽性に傾いた現実社会の個性はつまり全体的に陽性な色で画一的だと思う。

そこで「自分らしい自分でいること」は大変に難しい。自分の色を守ることは難しい。朱に交われば赤くなるじゃないけど、そんな感じ。

ありのままの姿見せるのよ

僕がこの記事で何を言いたいのかと言うと「本当に本当の意味でありのままでいたいよね」ってこと。

現実はなぜかすべてを陽性なものにしなければ気が済まないらしいけど、それってかえって陰性なものを隠して、誤魔化して、罪悪感とか嫌悪感みたいなちょっとした善性に縋り付いてみて見ぬフリしてるだけなんじゃないのって思う。

これじゃ普段の僕ら一人一人にそっくりだろう。

さらけ出したところで、認めたところで、そのものの本質的な性質は変わらないだろうに、なんとか日向に引っ張り出して、明るくして、温めて、ちょっとは見られるものにして満足してるだけなんじゃないのかって。結果全部が平均的にぬるーくなって、陰影もないつまらない様態になる。無個性になって安心する。

黒が相応しい部分もあれば、白が相応しい部分もあって、僕らの個性の話で言えば、単純にどちらが似合うか、どちらがフィットするか、どちらがしっくりくるかという話でしかないと僕は思う。それがありのままなんだと思う。

隠したいこととか、見せたくないこととか、知られたくないこととか、本心とか、欠点とかそういうものは自分の中の日陰に置いておいた方が似合うなら、そっちの方が相応しいと思うなら、そこにあるべきなんだろう。

見えない、見せない、触れられない、触らせない。

それは十分個性になるし、それはそれで「ありのままの姿」なんじゃないか。

現実社会がいくら僕らの影の部分をさらけ出し陽性に転化しようと努力することが人として正しいと言っても、それはありのままの姿を見せる手段にはならないし、自分らしく生きることにもならない。むしろ反対のことが起こる。

他人らしく生きることになる。

※余談だけど、冒頭の方で書いた

犯罪に並々ならぬ興味を持っている人、感情の起伏が激しい人、適切な言葉遣いや礼儀を知らない人、定職に就こうとしない人、貞操観念が薄い人、責任感が乏しい人、きまぐれに行動を起こす人、他人に興味を抱かない人、意志の弱い人、誰の役にも立とうとしない人、変な実験に精を出している人…

って、最近本とかドラマとか見たばっかなんでシャーロック・ホームズのこととか考えながら書きました。半分くらいは当てはまるんじゃないか。

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