古本市に人は群がるのに、なぜ図書館は人でいっぱいにならないのか。

この話は偏った観測に基づくものではあると思う。

年明け札幌に出かけたときにちょっと考えたことで、ブログに書くほどのことではないのかもしれないけど(ブログに書くほどのことってなんだよ逆に)、何となくそのうち「考える種」になりそうなのでメモです。

なんの話かって言うと、ざっくり言えば、「なぜ人は古本には殺到するのに、図書館は人でいっぱいにならないんだろう」という疑問。

そりゃああんた…と色々回答は得られそうだけど、ここで特に考えたいのは、「古本を見るときの人の目と、図書館にいる人の目って違うよな」という実感に基づく人の心理、難しく言うとすれば「文化資本に対する人の態度」と言ったあたりです。

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あんなに熱心に本を探している人がいっぱいいるのに、なんで図書館にはあまり人がいないんだろう

年明け、ちょっと用事があって札幌に行ってきました。

札幌の地下歩行空間では、よく古本セールとかが行われています。

通り道に古本があれば確かに気になるし、僕もぐるりと見てみたんだけど、この狭い空間に対してこの人の数、そしてこの本をむさぼるような熱い視線はなんだと感じて、そもそも若干久々の人混みに疲れていたのですぐに撤退。

「あんなに熱心に本を探している人がいっぱいいるのに、なんで図書館にはあまり人がいないんだろう」

ふとそう思いました。

だってお得さで言ったら図書館なんて無料で貸し出ししてくれるワケですから、比べるまでもありません。無料であれだけの本が読めるなんてよく考えなくても素晴らしい!

古本には「掘り出し物」があるかもしれないと思うのかもしれないけど、蔵書量で言っても図書館とは比べ物にならないので、掘り出し物がある確率も図書館の方が上です。

そもそも「掘り出し物」が仮にあったところでそんな滅多に巡り合えない本だと判断するほどの知識があるのかは疑問だし、日ごろから探してた本があるのだとしても、多分たいていは検索した方が早い。

いや僕も古本とかつい見ちゃうし色々理由があるのは分かります。図書館が近くにない人もいるだろうし、買うと借りるじゃ全然違うし、これから出張なんかでちょっと移動が長いから手頃なものを探してるうちに熱くなってとか、色々考えられる。

しかし、ここで考えたいのはそういう諸事情よりはちょっと上の、「文化的なものに対する態度」のことです。

あんなに熱心に本を探す人がいっぱいいるのであれば、どこの図書館も押し合いへし合いになってておかしくないだろうと。でも多分そうはならないよな、図書館っていつも静かだよねと。

そんなのは当たり前だろと思うかもしれないけど、不思議と言えば不思議ではないですか。古本の人気さと図書館の利用者数の体感的な差異と言うか、そういうの。

無料よりは得なもの+与えられるより自分の力で得た物の方を大切にする?

先にある仮説を立てるとしたら、「人は無料よりは得の方を選ぶものなんじゃないか」ということです。

だってただ本に書いてある内容を享受したいというのであれば、目的は暇つぶしだろうが勉強だろうが古本と図書館の本の間に違いはないはず。図書館の本は肝心なことが書かれてないとかじゃない。

いや図書館の本はメモが取れないから…とか言う人もいるかもしれないけど、意地悪なことを言えば記憶に留めようとするのなら該当箇所の本文から別のノートに書き写し、その上で私見を書いた方が良いはず。行間や余白だけではろくに使えるメモなんかとれないんじゃなかろうか。

いやそれほどではないんだよ…ちょこっとね…と言うなら付箋にメモを書いてスマホで撮っておけば十分。それほどではないという人であれば、その本を読み返すよりはスマホのフォルダーを見返す機会の方が多いでしょう。

しかしそれもこれも好き好きですよね。理屈ではなく何となく借り物じゃ思い切って使えないとか(折り目を付けることや、メモのために本の中心を押してグッと平らにしてページを安定させる作業もできない)、メモ以前のメモみたいな段階もありますもんね。

こういうことも含めて、「無料の本では十分に活用できない」という気持ちがどこかにある。理屈を言おうとすれば言えるけど、完全に合理的なものではなく、単純に何となく、借りるよりは買った方が良いような気がする。

そしてどうせ買うなら、定価よりは一冊100円とかで手に入れられた方が良い。

ここでさらに仮説を加えるとすれば、「人は与えられるより自分の力で得た物の方を大切にするという心理が働いてるのではないか」ということも欠かせません。

古本を見るときと図書館の本を見るときの人の目の違い

古本セールで手に入れるのは、物質そのものよりも「文化的な資本」、つまり知識や教養(もしくは充実した時間)と言ったものでしょう(資本だから交換できて、利潤を生むもの。つまり文明的な道具としての文化)。それも確固とした成果ではなく、そういうものを得ようとする営み(文化的なふるまい)に対する充実感を求めている。

物の値段そのもののお得さもあるけれど、文化的な資本に対するお得さも古本では感じることができるから、無料の本には目もくれないけれど、古本となると熱くなる。

人より深い知識や教養を、安い値段で、それも積極的に探し求めてではなくぷらりと立ち寄った古本市で探すともなく探したモノから得ることができたというお得さや優越感(有能感も働くかも)

知識や教養を得たいと切望するなら図書館の本を片っ端から読んだ方が絶対に得られるモノの総量は多いんだけど、知識や教養も定価より安く、人より要領よく、そして半ば独占的に、かつ自分の力で得られたという、相対的な成果を人は求める。

だからこそ古本を探すときと図書館で本を探すときの人の目は違うのではないでしょうか。

『街場の現代思想』を参考にしました

ちなみに、「文化資本」とかかっこつけて言ってるのも、以上のような見解も、内田樹著『街場の現代思想』という本を参考にしています。

さらにちなみにという話をすると、「文化資本」という言葉はフランスの社会学者であるピエール・ビュルデューという人が使ったものらしい。

ここでは本の内容についてあまり触れないけれど

ブリュデューが皮肉に指摘していたように、文化資本の逆説とは、「それを身につけよう」という発想を持つことそれ自体が、つまり、文化資本を手にして社会階層を上昇しようという動機づけそのものが、彼が触れるものすべてを「非文化的なもの」に変質させてしまうということにある。「文化資本を獲得するために努力する」というみぶりそのものが、文化資本の偏在によって階層化された社会では「文化的貴族」へのドアを閉じてしまうのである。34p

という箇所は身に摘まされるところがあるのではないでしょうか。

街場の現代思想 (文春文庫)

もっとも、ここで言っている「文化資本を獲得するために努力する」というのはもっと積極的な文化資本への希求から来るものであり、人より安く知識や教養を享受し、しかもできればそれを人に譲りたくない(人より知ってるという優越感を維持したい)という態度はもう少し庶民的なものです。

だからそもそも今回の記事で上の文章を引っ張ってくること自体適当ではないのかもしれない。

しかし、「文化資本という一見目に見えないものを享受する際にも損得勘定が働いてしまう」ことなどから、僕らはどこまでも他者を意識してしまう社会的な動物なのだなと実感することができます。

そして、文化という純粋な精神の領域のこと(楽しい、好きだという純粋な感情)も、僕らの社会では道具として扱われるものなのだなと考えることができる。

文化の文化らしさを守るために

最後に、少々飛躍してまちづくりに絡めてまとめとするけれど、まちづくりに文化的なものを取り入れようとするとき、僕らはやはり文明社会の中の道具としてそれらを使ってしまうのではないでしょうか。

この地域は海外の学生との交流が盛んでとか、外部講師によるワークショップを毎月開催していてというものを広告塔とするとき、「人より得るものの多い生活」「将来有利な感性」という理想像を思い描かせるようにするものなのではないか。

誰もがお得に文化的な英才教育を受けるためにはもしかしたら田舎は優れた環境なのかもしれないし、物質的なものよりは経験や生き方のデザインを「売り」にする地域は増えていくんだろう。

それはもう知れ切ったことです。

そのとき、「人は無料よりお得に惹かれるものだ」という行動心理はより顕在化するのだろうし、無料で与えられるものよりは自分の力で得たものを大事にしたがるという心理も働き、文化資本を得るために移動する人は増える。

そんな風になると予想できるからこそ、純粋な文化性を守る工夫というか、文化が文明に飲まれないためのあれこれを考えなきゃという焦燥感がある。文化的なものをまちづくりに活用する方法うんぬんより、そういうところがマジの課題なんです。

芸術に溢れ美しい町はオシャレな生活のためにこさえられるのではなく、ただ美しいのだ。

面白いものが生まれる町は将来性があって観光地として使えるのではなく、ただ面白いのだ。

それは子どもらしさか。

創造で繋がるコミュニティを作る上で守らなければならない創造の純粋性

なぜ創造行為には人を惹きつける力があるのか。僕はそれをどうしたいと思っているのか

古本市に人は群がるのに、なぜ図書館は人でいっぱいにならないのか。(完)

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