「最後は人の手で」がかもす安心感はなんだ/人の役割と文学の立場

「最後は人の目と手を使って確認します」とか、「一つひとつ手作業だからなんとか」って言う文言を、製品の高品質の根拠であるかのように宣伝することがあると思うけど、なんかこれに騙されてる気がいつもしている。

一つひとつ人が確認してるから安心なんだって言う感覚はなんか確かにあるし、「おー、すごい」って一瞬思うけど、冷静に考えれば、いや適当に考えたって人の性能ほど当てにならないものはありません。

ミスをするのが人間。簡単な単純作業でも必ずミスをするし、何度も繰り返している慣れた動作でさえ、ときに間違ったりする。体調も変わるし、気分も変わるのが人間。

機械が不完全なところがまだまだあるのは事実かもしれないけれど、技術が進化さえすれば、機械は必ず人間の目と手よりあてになる仕事ができる。しかも高速で、絶え間なく。そして進化が求められさえすれば、機械は必ず進化する。

「この作業はかなり微妙だから人の手じゃないとできないんですよ」みたいなことを聞くこともあると思うけど、それは時間とコストの問題で人間の能力の優位を証明することにはならないんじゃないかなと。

でも何となく「人が確認している」という点に安心感を抱いてしまうのも事実。

それって何でだろうって考えるに、「責任の所在がある」という点に安心感があるんじゃないか、という出発点に行きついた。

機械がやったことだったら、万が一何かあったときに責められる相手がいない。確率と技術不足の問題だと納得するしかない。

だけど、「最後は人の目と手を使って確認します」とか、「一つひとつ手作業だから」というのは、じゃあミスをした誰かがいるってことだな?という安心感がある。怒りのぶつけどころがあるってこと。

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手紙の差出人は人であると信じてる

これなかなか鋭い着眼点じゃないか。

実際「怒りのぶつけどころがあるところに安心がある」とか文字にしてしまうとまさかそんな訳ないだろうと思うかもしれないけど、「設計組み立て発送まですべてオール機械のプロダクトだから安心確実です」って言われたときのことを想像すれば、頭では確かに機械がすべて支配している方が安心だと分かってるのに、なんか釈然としないっていうモヤモヤを感じられるはずです。

きっと僕ら「人為的な気配」みたいなものを求めていて、「人の心」的なものの存在も信じていて、ドライに考えれば一つひとつの製品に真心込めようが機械が2秒で仕上げようが変わらないことは知ってるのに、何となく人の目を通した方が安心できるようにできてる。

「責任の所在があることが安心」というのは言葉の綾で、世の中そんなにクレーマー体質な人ばかりじゃないと思うしもっとマイルドに言うと、「その先に人間がいる」という安心感です。

なんか漠然としちゃったけど、単純に、機械から手紙が届くのと、人間から手紙が届くのとでは、機械の方が不気味だって話が分かりやすいかもしれません。

人間は誤字脱字をするかもしれないし、書くのも遅い。機械なら書き間違いも文法のミスもなくて読みやすいけど、それでも手紙が届いたなら、その出元は当然人間だって思うし、実際にその方が精神衛生上良い感じ、みたいなこと。

その先に、話が通じる相手、感情が通じる相手がいるというのはやっぱり安心で、そのどちらも適わない相手がその先にいると、こちらが抱くどんな感情も無駄に感じられてしまってモヤっとする。だから、「怒りがぶつけられる相手がいるってところが安心」なのです。

他人の情を請け負うことが人間の仕事

でもどう考えたって、人間がやるべきことはどんどん減っていきますよね。ほとんどの仕事は機械に頼ることになるだろうし、その方が色々と都合が良いはず。

「これは人間じゃなきゃできないんですよ」っていう仕事は確かにあるかもしれないけど、それは今のところまだ人間の方がコスパが良いという話であって、機械を導入するほどの効率を求めないという話であって、やっぱり仕事となると人間が優位な点ってそんなにないと思う。

そう考えると、最後まで残る人間の仕事は「情」を請け負う部分(怒りがぶつけられる相手になること)であるという結論が出る。

カスタマーセンターは無くならないかもしれない。

でも責任を取るとか謝るという業務ではなくて、お怒りの電話に「分かるよ」って言うこと。

だってお客様の製品に不備があったのは誰のせいでもなく機械のせいだから。0,001%の確率で起こるエラーの重なり(製品の組み立てミスと見逃しミス)にぶち当たったってだけで、責任を取るべき人間は存在しないから。

ちなみに客がクレームの電話をかけた瞬間に替えの製品の発送は住んでて、最寄りの営業所から新しいものが届く(ドローンで10分)ので、お怒りの声を聞いてる間に問題は解決してる。この一連の処理も当然ロボットが自動でやる。

だから求められるのは問題を解決する能力ではなく、共感能力ということになる。もしくは感受性や、理屈を乗り越える想像力。

つまり未来になればなるほど世に必要なのはいわゆる女性的な能力であります。

女性社会となりつつある現代の風潮と照らし合わせてみてもそれはある程度納得できることで、便利に進化していく社会だからこそ求められるのは実より情。

合理性より情緒的で感覚的な何か。

解決するのではなく納得するのが人間

だからどうって話じゃないです。

もしそういう情緒や感覚が社会に認められる価値になってしまったら、情緒や感覚が合理的な道具になってしまう(共感を生むライティングの方法みたいなのもあるし既になってるけど)。

合理的な道具になってしまったものは機械に代替可能で、極端なことを言えばカウンセラーもロボットの方が優秀という結果になる。こう言えばこう反応する。こう反応すればこう行動する。こう行動すれば、こういう結果が生まれる。そういうプログラムが完成すれば、合理によって人は支配されることになる。

不合理な人間が合理に沿った行動を繰り返す、血の通ったエレクトリカルシティが生まれる。

これはこれで面白いんだけど、「えーまじか。じゃあいよいよ人間のやることはなんだ?」という話になる。人間にしかできない、人間が人間らしくあるために人間がやるべきこと。

考えるまでもない。

問題視することなんだろう。

「なんか嫌だな」

「つまんねーな」

「気に入らないな」

別に義務でも何でもなくて、自然にそう感じてしまうことくらいしか、人間らしい、人間にしかできないことはないんだと思う。

おおそう考えると、さっきカスタマーセンターのたとえ話をしたけど、便利な未来社会において本当に仕事をしていたのはクレーマーの方だった、ということになる?

いやクレーマーの存在それ自体はそれはそれで問題っぽい。感情に任せてギャーギャー言ってるだけではうるさいだけなのだ。動物と変わらない。人間には理性がある。

だから、感情を持って問題を見つめ、理性で以て解決するという営みが人間の仕事となる。そういうことなのか?

つまり創造すること。問題を見つけ、解決し、満足を目指すこと。

んーそうなのかもしれないけど、なんかつまんないな。なんかつまらない。教科書的すぎる。

結局、満足を目指すとかあるべき状態にするというのは合理を求めることだし。

てことは、もしかしたら「問題に納得すること」こそが人間にできることなのかもしれない。人間の理性はそういう風に使うのかもしれない。大変苦しいことだけど、問題にはいつも解決があるとは限らないもんな。

そんで多分、そういう苦しさを抱え込むのが「文学」とか「哲学」なんだろうなって思う。

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