「生きにくい世の中だ」とゴムの壁/剣淵の夜、前夜

下書きボックスに入れたまま、公開できずにいた記事があります。 それがこの記事なのですが、書き始めたときは自分でも何故この話題を書こうと思ったか分かりませんでした。

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誰に伝えたいまちづくりか

もっと人が動きやすくなれば良いのに、もっと世の中が生きやすくなれば良いのに、自分の居場所、落ち着ける場所、帰りたい場所が色々なところに増えれば良いのに、なんて思ったのが、自分の故郷で何かしたいと思ったきっかけのひとつです。

自分の故郷は僕にとって帰りたいところの一つではあるけれど、縁もゆかりもない誰かにとって、僕の町はそういう場所だろうか。

仮にそんな町なのだとしたら、そんな場所を求めている人がいてもここまでたどり着くきっかけや手段や動機がなければ一生ここに足を踏み入れることはないのではないか。

じゃあ僕は一体どんな人のために、そういうきっかけや動機を用意してあげられるだろう。

どんな人を想定しているのだろう。

きっと、僕と同じように世の中が生きにくいと感じたことがある人だ。

会話で感じるゴムの壁

自己分析が終わった/ブログの方向転換」でも書いたのだけど、僕は基本的に内向的な性格です。

で、ある程度って話だしほぼ無意識になんだけど、僕は僕に近い人に向けてこのブログ記事を書いているつもり。

僕が居心地良くて、僕が面白いと思う町は僕とある程度共通の属性を持っている人にとってそうなんじゃないかなと思うから。

だからと言って自分と違う人は排除したいと思っている訳でもないです。

世の中は多様で、バランスが命で、僕自身、自分とは全く違う人に助けられたり励まされたりすることがたくさんある。

憧れたり羨ましくなったりする。

だけど普通に文章を書くと自分が出てしまうし、何だかんだ言ってもやっぱり自分が理解されたい、自分が作りたい、自分の居場所を整えたいという自分自分の気持ちがあるので、気の合う人がいてくれると心強いなと思うという感じです。

隔たりは面白いけど、ただ、隔たりが大きすぎると寂しいし怖いんですよね。

この隔たりの大きさというのは人同士の価値観とか意見の隔たりではなくて、もっともっと根本的な隔たりです。

概念上の隔たり、もしくは厚い壁、ゴムの壁。

ああ、そもそも同じものを見ていないんだ、同じ世界にいないんだという違いです。

いや違いですらない。

比べるほど共有しているものがない。

この時点で「は?」と思う人と、「あー」って思う人の違いがあると思う。

前者の場合、「ああ、訳わかんない感覚的なこと言って理解されない自分カッケ―なタイプの人ね」とかって思うのだと思う。

イエス、僕は一方で理解されない部分を大事にしているし、そういう領域のことを考えられる自分の思考能力に満足もしている。

「そんなの当たり前じゃん、人間みんな違うもんだよ」って言う人もいる。

イエス、だけど今はそんな話しはしていない。

「なにそれ哲学?そんなこと考えて疲れない?」と言う人もいる。

イエス、哲学なのかもしれない。

ただの哲学だと考えるときっと僕が無遠慮に書くこういう文章も理解されないレベルのものではないということだから思い切って書く勇気が出る。

疲れるかと言われると、疲れる。

だけどそれは、疲れない?と聞かれたときの徒労感が大半の原因。

ぶつけた言葉がバインッってゴム質の壁みたいなものにあたって、そのままダムッって床に落ちる音を聞いたとき。

全力で投げたところで壁が厚すぎて、相手に届いたという手応えは全くない。

だけどはいはい聞いてるよー届いてるよー、要するにこういうこってしょ?って落ちた言葉に視線を向けながら言われるとき。

生きにくい世の中だ

「生きにくい世の中だ」と言ったり感じたりしたときにも、同様な返答が起こるのだと思う。

それは実際にこうやって言われたことでもあるし、表情の裏に見え隠れするものでもある。

「ああ、繊細な自分カッケ―ですか。悩み多い自分カッケ―ですか」

「そうだよねー色々難しいよね。生きるって大変だと思う」

「ごちゃごちゃ言っててもしょうがなくない?」

イエス、イエス、イエス。

どれも真実で間違ってないから反対の意見なんてない。

だけど分かってくれたと感じるのはそういう意見とか価値観ではなくて、そもそも知りたいのは答えや解決法ではなく「あー」という共感の一文字だったりします。

いっそ本当に一人ぼっちで宇宙で宇宙服来て漂っているとしたら、別に何も感じず、何も思わず生きていられるんだろうと思います。

ただ寿命が来るまで生きるだけ。

生きづらいなーなんて考えることもないでしょう。

だけど、生きづらさの大半の原因は、隔てるものなんて何もないはずなのに生きづらいという切なさが相手に伝わらないからということです。

生きづらいと言っている時点では何とも思っていないけど、その感情が伝わらない遣る瀬無さに徒労を覚える。

生きづらいと言ったからって、それほど大袈裟なことを言っている訳ではありません。

生きていたくないとか思う訳じゃないし、生きるのに疲れるほど大きな悩みがある訳でもない。

ただ人との間にある明らかで大きな隔たりの中で、それでもそれぞれが同じ世界を共有しているという設定をまもるのはとても辛い。

世の中や世界が当たり前のものであって、みんな共通のものであるということに疑いを持たない人に、自分は一人ぼっちで寂しいのだけど、そっちはどうですか?と言ったその言葉がやはりゴムの壁にぶつかるのが怖い。

話しを聞いてくれ、話を聞かせてくれ、そっちはどんな様子なんだ、という単純なメッセージが届かないのが寂しい。

なんもふつうだよ、全然変わらないよ、元気だよ。

それで近況が交換できる程、人工的に統一された世の中です。

ショートカットキーみたいな言葉のいくつかで、すばやく、そそくさと理解し合わなくてはならない世の中です。

 無意識の期待

という書きかけの文章があって、なんでこんなこと急に書く気になったんだろうなって思っていたのです。

公開は保留にしようと珍しく下書きボックスに置きっぱで。

だけどその答えは、すぐに与えられることになります。

朝日町のご近所である剣淵町でのこと。

この記事の下書きを書いたのが8日の夜。

公開を渋ったせいで後付みたいになって説得力がないけど、9日の夜から10日の朝にかけての剣淵での時間で、僕がこの記事を書いた理由がはっきりしました。

スピリチュアルな言動に聞こえるかもしれないけれど、無意識の領域で剣淵町で得られる何かを期待していたのだと思います。

説明できないレベルの根拠でもって。

そして僕はこの記事に書いたようなことを意識の中に持っていたので、その答え探しができたのだということです。

よって以降2本くらい立て続けに「剣淵の夜」の記事を公開する予定です。

この記事はだから剣淵の夜の前夜のお話。

先に読んでも後に読んでももちろん読まなくても構わないという前フリ的でありあとがき的であり、裏話的な記事ということになります。

良かったら続けてどうぞ!

剣淵の夜①絵本の里けんぶち/文明と文化~文化を創るということ

剣淵の夜②多様な人々と田舎の夜の話し

宇宙の拡がりと文明の拡がり/宇宙と頭の中は似ているという話。剣淵の夜、補足譚。

「生きにくい世の中だ」とゴムの壁/剣淵の夜、前夜(完

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コメント

  1. TT より:

    私も他人から、感情的に共感されることは殆どないからわからなくもない。

    ただ、この話は一切スピリチャアルな話ではない。
    物を認識する時、そこに物体・事柄などが実際に存在することと、
    その物体・事柄に対しての意味づけでは一切関連性がない。
    前者は客観的事実であるように思えるが、
    後者は完全に主観であり、これは人によって違うのだから、
    両方を踏まえれば、誰もがそれぞれ違う世界感を持っていることになる。
    鈍感であれば気にしないだろうが、鈍感でなければ気になって当然だといえる。

    物語を創作するというのは、自分の世界感を表に出す行為なのだから、
    そうでなくては、良い物語を作るなど到底無理な話であるように思う。

    • 塚田 和嗣 より:

      TTさん

      コメントいただきありがとうございます。

      この記事を書いたときはどちらかと言えば悲観的というか感傷的な気分でしたが、最近では世界観を共有しきれないからこそ、共有しているという幻想を大事にしたいという気持ちが強くなった気がします。

      自分にしか見えていないことを伝える努力をすること、同じく他人のオリジナルな世界観を理解しようと努力をすることが、正しいとは言わないまでも、楽しいことであるという楽観的な気分です。