創造で繋がるコミュニティを作る上で守らなきゃならない創造の純粋性

僕が思う創造で繋がるコミュニティというものにおいて、創造はそれ自体が目的ではあるのだけど通信の媒体に過ぎず、創作は結果ではなく手段です。

分かりにくいと思うので言い方を変えるけれど、例えば携帯電話は通信(コミュニケーション)のための道具ですけれど、このときそれを使うことは目的ではなく手段です。
つまり、創造という行為(電話的な道具)を通して誰かとコミュニケーションを取ることが目的であって、道具を使う(創造行為)ってところに満足しては滑稽なことになると思う。

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手段が目的になってしまう人生

しかし、手段が目的にすり替わってしまうのはよくあること。

特に文明社会、もしくは大人の世界ではよくあることで、多くは経済的な理由が先に立って、何事も手段を要領良くこなせるようなシステムが採用されてしまう。

「仕事」がまさにそうだと思います。

仕事は(より良く生きる)手段であって、目的ではないと僕は考えています。

もちろんその仕事が楽しくて、やってて自分で楽しいならその時点でより良く生きれている訳だからそれは立派に目的を達成していると言えます。

反対に働かないことでより良く生きられるなら、そういう人は働かない方が良いでしょう明らかに。

だけど普通は何をして働いていて、どこのどんな人の人生をより良くしているのかという目的は考えず、水準程度の給料(報酬)を貰い、税金を納めて、つまり「仕事という行為」をして、それがまるで人生において大事なことのように扱われることがある。

だから仕事が嫌で嫌で仕方なくて仕事をしなきゃならないってだけで人生の8割くらい楽しくないって状況でも、容易に仕事は辞められない。

やってて楽しくないから止める/やらないっていう選択肢が当たり前に認められるほど趣味的な営みに早くなったら良いですよね。

でも仕事は目的ではなくあくまでより良く生きるための手段であると思うから、今後はその点がより際立って認識されるようになって、仕事との多様な関わり方がもっと認められるようになっていきます。

芝居は間口が広く、純粋な芸術を楽しめる

僕は創造という分野は完成や正解がなく、だからこそ恒久的にコミュニケーションの媒体となれると考えています。

しかし、それを実際に行おうとするとすると手段が目的になってしまう可能性は多いにあります。

最終的には手作りの劇場で、小道具や仕掛けも作り、誰かが書いた脚本を、どこからか町に来た役者が演じ、それを何人かが覗き見るという極小の世界を作っては壊し、作っては壊しを繰り返せる仕組みを作りたいと思っている。

もちろん、ややこしいことを言うようだけど、この創造行為自体は目的です。目的であり、同時にどこまでもコミュニケーションの道具(手段)なのです。

音楽家は音楽を作ることに命をかけるだろうけれど、それは外界と繋がるための手段でしょう。

詩を書く人は自分の見たものの中から純度の高いエキスを抽出して人に見せることで、他者の琴線に触れることができるのでしょう。

芸術は本来自己完結な部分は大いにあるけれど、つまるところ他者(もしくは他人としての自分)との高次での繋がりを求めた末の結果なのだと思います。

芝居が良いなあと思ったのは、間口が広い分、コミュニティとしての間口も広いから。

様々な分野の、純粋な芸術家が自己と対話し、作品を通して他者と対話できる。こんな贅沢なコミュニケーション媒体があるだろうかと思うのです。

そういう創造行為を通してコミュニケーションを取るということについては、みんなでお料理を作って食べましょうという空気を想像してもらえば分かると思う。

そこにいるみんなで楽しむためにやる。作っては食べ、おしゃべりして、それでオーケー。

そんな感じで芝居を作る。もちろん平和で楽しければ良いのではなくて、本気で芸術作品を作る。芝居ならその場にいなくても創作に関わることができる(遠くの人に脚本を書いてもらったり)

そういうやり方で芝居を作るとして、それが目的になってしまうということはどういうことか。

純粋な創造の余地を守らなくては

例えば、1作品当たり何人以上お客さんを集めていくら以上稼げるようにならないと出来ないよということになるとか。

そのためにじゃんじゃん告知しないとダメだろうとか、公演の回数を増やしたり、一度に見られる人の数を増やしたり。安易に町おこしにつなげてそれで有名になろうとしたり。

僕らは物事を目的を達成する以上の手段にしてしまいがちです。

町おこしとか地域おこしとかってなるとどうしても集客とか売上っていう限定的な評価で良し悪しが判断されるから特にそう。

何かやって、ある程度注目されてるぞ、お客さんが来るぞとなったら、要領良く、効率的に運営することが主目的になります。

いわゆる町おこしとしてやるならそれは良いのですが、創造で繋がるコミュニティ作りという目的の前ではそれではいけません。

コミュニケーションの手段は目的になってしまうと滑稽だからです。

冒頭の携帯電話の話もそうだけど、例えば英語の勉強もいつの間にかそれ自体が目的になってしまったりってあると思います。

勝手なイメージではあるけれど、創造の世界では特に商業主義的な品物や思惑に対する非難が激しいようです。

大衆には純粋な芸術を見る目があり、ときにメディアやそれに踊らされる消費者を揶揄することがある。

例えば芥川賞

例えば芥川賞を又吉さんが受賞したけど、大衆は作品そのものよりも芥川賞の話題作りの側面にフォーカスを絞ってしまい、賞や作品に批判的になります。

良くも悪くも話題になるという時点で芥川賞の勝ちなんだけど、大衆は、創造が経済の道具に使われていることにがっかりします。

職業としての、プロとしてのアーティスト、作家がみんな経済から独立しろなんて誰も言わないと思うけど、要領よくマーケティングとか売れる法則とかで作り上げたものを見ると鼻白むから止めて、そういうの伝わっちゃうから、と思う人は多いように思う。

町おこしとかと絡めると、今はあらゆるものが経済や集客のための「手段」となってしまいます。

創造で繋がるコミュニケーション作りを小さな町で目指すからには、創造行為の純粋性や絶対的な部分を忘れないという気持ちが必要になるでしょう。

創造行為それ自体は伝えることが目的であって、他者と高次で繋がる(分かる人には分かるけど分からない人にはまったく理解できない絶対領域を共有する)ことが目的だと僕は思うから、大衆に阿った時点で破綻。

創造で繋がるコミュニティを作る上で守らなきゃならない創造の純粋性(完)

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