ラーメンズの傑作コント『採集』から「怖さ」を学ぶ

ラーメンズが好きなのですが、特にお気に入りのコントは『採集』かもしれません。

かもしれません、と言うのは、コントと言いつつなんか噛めば噛むほど怖い話ですし、笑いたいときに見るもんじゃないからです。強いて言えば完成度の高さにニヤリとしたいときに見ます。良いもの見たーって気持ちになる。

けっこう有名だし、『採集』に関する考察を書いたブログ記事はいくつかあるようなのですが、そうなるのも頷けるなっていう作品。

だからいまさら『採集』に関する記事を書く意味なんてあんまないようなのですが、僕は今怖い話を作っているので、この作品に感じる怖さから学べることはないかと考えているのです。

この怖さを作る要素はなんだ。

そういうテーマで『採集』を考えてみたいと思います。

※作品を見たことがある人向けの記事ですので、知らない人はぽかーんとなってしまうおそれがあります。よろしければ先に作品をどうぞ。

スポンサーリンク
スポンサードリンク

ギャップが怖い

ストーリーにおいて、どんでん返しってのは大事ではありますけど、ここで言っているギャップというのはどんでん返しという以前の、空気感のギャップです。

片桐仁扮するジャックと小林賢太郎扮するプリマのプチ同窓会的な、牧歌的と言ってもよい空気(くすっと笑えるコント的な空気)から、こわーい空気になってしまうギャップ。

場面が変わるわけでもない、登場人物がどんどん増えていく訳でもない。ストーリーを動かすのは難しい状況。

この条件で人の感情を動かすには落差を作る必要がある。

『採集』を見るといつも、ギャップって大事だなって思います。

リアリティが怖い①

『良心を持たない人たち』という本がありますが、それによると、実に25人に一人は良心を持たない人なんだそうです。

良心をもたない人たち (草思社文庫)

外国の本ですから数字をそのまま鵜呑みにする訳にはいきませんが、「良心を持たない人」というのは意外にありふれているという点は覚えておいて良いかもしれません。

単純に25人に一人という確率を信じるとすれば、学校の一クラスに一人は絶対と言って良いほど良心を持たない人がいるってことだし、言われてみればそうかもな、なんて、当時のクラスメイトたちのことを思い出して納得する人もいるのではないでしょうか。

ジャックは、明らかに良心を持たない人間であり、ニュースになるとしたら「サイコパス」に分類されるタイプの犯罪者だと思います。

でもジャックみたいな同級生、いても全然おかしくないですよね。人当たりは良いし、没頭する趣味を持っている(一芸に秀でている)、異性にはあまり興味がなく、かと言って恋心が理解できない訳でもない。それどころか、たいていの人より人心掌握術に長けていたりする。

いるでしょう。

たまたま目的の遂行に犯罪的な行為が必要だったり、他人の犠牲を必要とする場合にもすんなりやってのけてしまえるからこそ良心を持たない人間は怖いですが、目的がそこになければ、ごく普通に(むしろ人より恵まれた)社会生活を営んでいる「良心を持たない人」は世の中にいっぱいいると僕は思う。

きっと多くの人は「良心を持たない人」が意外にうじゃうじゃいるということを肌感覚で知っているからこそ、プリマの異常性がやたら身近に感じられるし、「ない話じゃないな」っていう風に話を受け入れることができるのではないでしょうか。

ジャックは、そうそうこういう人って明らかに変な訳じゃないんだよ、っていうリアリティがしっかり作り込まれたキャラクターだと思います。

リアリティが怖い②

リアリティが怖いってわざわざ言うのは野暮というか、そんなの当たり前じゃんという話かもしれませんが、それでもあえて言わなければならない程、『採集』で演出されているリアリティは緻密なものがあるのではないかと思います。

例えば冷静に考えれば「夜中の体育館に忍び込んで晩酌をする」なんて、普通許されることではありませんよね。

こんな教師がいたらけっこう問題だと思いますし、呼ばれて来る方も来る方だ。懐かしいなーなんて言ってる場合じゃないよ、そこでこいつおかしいと思わなきゃダメだよって話です。

結果論みたいな話ですけど、この種の結果論はワイドショーとかでよくコメンテーターが言ってますよね。「そもそもここからおかしいですよね」みたいなこと。「周りの人はもっと早く気付けなかったんですかね」って。

仕事だからそれらしいことを言っているのだと思いますが、もし本気で言ってるのだとしたら想像力に欠けていると言わざるを得ない。

リアリティの前では第三者的な、もしくは優等生的な、正しい判断なんてなかなかできません。

実際、僕らは『採集』というストーリーをなんの疑問もなく受け入れてしまっています。緻密なリアリティの演出によって。

具体的には、例えば『採集』の舞台において、体育館でのシーンはすべて微妙にエコーがかかっています。臨場感が出ます。

この基本の演出に加え、ジャックのキャラクター性(プリマのキャラクター性)、プチ同窓会のようなシチュエーション、田舎特有のゆるい空気と閉ざされた空気。もう町が寝静まってるんだろうなと思わせる。学校付近を歩く人なんか全然いないんだろうなって。

こういうの、僕らには何となく分かる。既視感すらある。

それには体育館のエコーが欠かせない。エコーが気になる程度には、辺りが静寂であるという演出。

こういう要素が合わさると、「夜中の体育館に忍び込んで晩酌をする」なんて些細なこと、異常には思えないのではないでしょうか。殺人か失踪事件でも起らない限りは。

このとき、観客はこのちょっとした大人の悪ふざけの共犯者であり、ストーリーを見守る側に回ります。

舞台だから怖い

緻密なリアリティの演出により、僕らはその空間に閉じ込められてしまっています。

これは舞台という媒体の醍醐味みたいなものだからやっぱりわざわざ言うことでもないのかもしれないけど、『採集』のような話は舞台じゃなきゃいけないと思う。

逆に、幽霊が出てきたり、もっとスプラッタ的なストーリーであれば、僕らはそれほど怖いとは思わないんじゃないでしょうか。舞台という場にそぐわず、リアリティが足りないから。

世にも奇妙な物語みたいに短いテレビドラマになっててもダメだと思う。

舞台だからこそそれだけで出るライブ感があるし、ライブ感を損ねないリアリティの演出があるからこそ、「こわっ」となる。

試しに、『採集』のストーリーを口で誰かに伝えようとしてみてほしいです。きっと、怖さが全然伝わらないと思う。少なくとも伝えたいと思うような怖さは。

『採集』はプリマと一緒に怖い経験をしているから怖いのであって、話してるうちにあれも説明しなきゃこの要素も欠かせないってところがたくさんあることに気づく。

だから「ああもういいから見て!見たら怖いから」ってなる。

想像力に怖さが宿る

本当に怖いのは生きてる人間だとはよく言います。

確かに、幽霊なんかより生きている人間の方にこそ警戒しなければなりません。

この『採集』という話も、いわゆる「人こわ系」の話であって、オカルトチックな要素はありません。徹頭徹尾、人が怖い。

ところが、「生きてる人間が怖い」というにはもう一つこれとは別の意味があると思います。

それは、怖いという感情を生み出しているのは人間そのものであって、怖いという感情のフィルターを持っているからこそ、この世は怖い話で溢れているのだということ。

「幽霊の正体みたり枯れ尾花」という句は有名ですし、「子供はすべての暗闇におばけを見出す」なんて言葉もどこかで見たことがある。恐怖心があるからこそ僕らは外の世界に「怖いもの」を見る。

『採集』を見てもらえば分かる通り、ラストのワンシーン以外では舞台上に何も怖いことは起きていません。

シチュエーションや、ジャックの言動を思い出すことで、プリマが勝手に怖い経験をしてしまっている。

ジャックの予定通り、プリマがスッと寝てしまったらどうでしょうか。それはそれで怖い話には違いありませんが、話しとしては面白くありません。

『採集』の26分間のほとんどはプリマと僕らがねつ造した怖い話であり、その想像のすべてが肯定される最後のワンシーンにこそカタルシスがある。

「誰でも一生に一本くらいは面白い物語を書けるものですねえ」/世に潜む、一億数千万の傑作。

ラーメンズの傑作コント『採集』から「怖さ」を学ぶ(完)

スポンサーリンク
スポンサードリンク