【レゾンデートル】自己完結する存在価値のはなし。

『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』っていう作品、特にタイトルがすごく好きで映画も見たし小説も持ってるんだけど、その中に「昆虫学は僕のレゾンデートルの一つだから…」とか書いてある一節があって、なんだそれって思う。

フランス語の表現の一つらしく、調べてみると以下のような説明がある。

【レゾンデートル】

自身が信じる生きる理由、存在価値を意味するフランス語の「raison d’etre」をカタカナ表記した語。他者の価値と比較して認められる存在価値ではなく、あくまで自己完結した価値を意味する。(weblio辞書より)

なるほど覚えておくと格好良さそうだと思って覚えてるけど、使い道のなさったらない。

だからブログでこの使わない知識をひけらかそうと思う。

でも、ただひけらかすだけでもないはずです。

あってもなくても構わない人生の小説的な面白さについて

ファッション化する仕事観について

という記事を続けて書いたけど、僕自身、なぜこれを書いたのか、結局何を言いたいのか分からないままでした。

だけど、多分僕はレゾンデートルの話をしたかったのだと思う。

つまり

「自身が信じる生きる理由や存在価値」

「他者の価値と比較して認められる存在価値ではなく、あくまで自己完結した価値」

こういう言葉が日本語に無い状況で、現代に生きる僕らはこういった概念を必死に探し続ける必要があるんじゃないか。

たぶんたぶん、まだまだたぶんとしか言えないけど、僕らは良くも悪くもひとりぼっちだと気づかされる時代に生きていて、だからこそ「何はなくとも僕は僕で生きる意味と理由があるのだと信じられること」が重要になるんじゃないかってことを僕は書きたかったのだと思うし、この記事でも書きたいのだと思う。

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尾崎とおれいものレゾンデートル

レゾンデートルという概念を一言でしっかり表す日本語はないと思うんだけど、この概念に対する親近感のようなものは十分あるのではないかと思います。

例えば尾崎豊はこのように歌っています。

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない

正しいものはなんなのか それがこの胸に解るまで

僕は街に飲まれて 少し心許しながら

この冷たい街の風に歌い続けてる
(『僕が僕であるために』より抜粋)

もしくは、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の高坂桐乃はこのように語ります。

「それでも、わたしはやめない。好きなのやめない。学校やモデルで頑張るのも、アニメやゲームで夢中になるのも両方がわたしなの。どっちかやめちゃったら、わたしがわたしでなくなっちゃう。もしアニメやゲーム、無理やりに全部捨てられても、それで今までのわたしがなかったことになるわけじゃないから、だから、好きでいることだけは絶対やめない」
(『俺の妹がこんなに可愛いわけがない 第3話より』)

うんうんレゾンデートル。実にレゾンデートル。

一過性の病としてのレゾンデートル

こういう類のことって、もしかしたら日本社会では「いつか卒業すべきこと」と見なされているのかもしれない。

自分が自分である理由とか、これがなくなったら自分じゃないとか、そういうのって口に出せば青臭かったり、ガキ臭かったり、青春と片づけられてしまうことなのかもしれません。

一過性の病気みたいな、冷笑でもってあしらわれる類のことなのかもしれません。だからそういう概念を一言でズバッと表す言葉が日本語にはないのだろうか。

だけどこの時代になって、僕らには何よりレゾンデートルが必要だと思います。

誰がいてもいなくても変わらない、自分が何をしても何をしなくても構わない、価値には代わりがあって、それは人も同じで、承認欲求を満たす方法が豊富になったわりにそれが全然簡単じゃない時代だからこそ、自分だけは「こうじゃないとわたしじゃないでしょ」って信じられる部分が、生きる上で大きな財産になる。

日本にはレゾンデートルという概念が生まれないのか

この話、WEB上でよく見かける「自分の好きに従う」とか、「嫌いなことはやらない」というところに結局行きつくのかもしれないし、基本的にそういう話にはまったく同感なんだけど、そういう話を聞いたり自分で書いたりしながら、どこか物足りなさを感じていました。

物足りなさというか、存在矛盾のような変な感覚。

「好き」という感覚に従って物事を決めたり、行動指針を定めたりすることは大事だし、この世を生きていく上では当然身に付けるべきマナーとすら呼べることなのかもしれないけど、「好きを貫くこと」とか「熱中すること」そのものが社会的な価値になってしまっている。

社会にある既存の価値観にうまく乗っかった概念として、必要なステータスとして、「好き」がある。履歴書に書く項目が増えた感じ。

それは半ば、「好きなものがなきゃいけない」、「熱中できるものがなければ劣っている」と言ったような観念を生み出しかねないし、それこそ他者をバリバリ意識したファッションとしての「好き」を身に付け、社会で一刻も早くポジショニングする方策に見えることがある。

つまり、「好き」が社会における一つの「正しさ」になっていて、だからこそ「堂々と追い求めても良いもの」になったのではないか。

「自身が信じる生きる理由や存在価値」

「他者の価値と比較して認められる存在価値ではなく、あくまで自己完結した価値」

広く、漠然とした他者に認められた概念としての、自己完結する存在価値は多分全然自己完結していない。

僕らが目指すものはあくまでレゾンデートルとは違う何かなんだろうか。

僕が僕であるために

「好き」という感情は必ずしも陽性の感覚を伴っているわけでもないだろう、とも思う。

もちろん「好き」と言えばオレンジとか黄色とかそういう色の、明るくてハッピーなイメージを伴っている概念というのも間違いがないと思うけど、単なる「親和性の高い何か」という、「自分の肌色にフィットするもの」という感覚もあると思う。

僕の場合、見るからにハッピーな色をした「好き」はあるかと聞かれれば、パッと思いつきません。文芸が好きとか書くことが好きとかって人には言えるだろうけど、それは「雨の日って好きだなあ」って感じと似てて、うきゃーってはしゃぎたくなるというよりは、色で言えばブルーな感情だと思う。

落ち着く、潜っていける、自分が消える。そんな陽とか動とは反対の感じ。

ところで僕は小説を書くのだけど、書いてると自分でも分からなかった自分が分かったりして、ああ、僕はこんなことを大事にしてるんだってことに気づけて面白いです。

僕は「疎外感」とか、「人と人の壁」とか、「距離感」とか、そういうものにとても心の親和性があるようで、そう言えばかつて

高校でぼっち飯生活を選んだ僕が守ったポジションと後悔について

という記事を書いてて、これはクラスで机を寄せ付け合って弁当を食べるのを拒否してたって話なんだけど、僕は根っから誰かと安易に繋がることに抵抗感を持っていて、輪の内側に入ることを拒んでいく体質なんだと思う。

たぶんこれ社会的には良いことではないのだけど、こんな男が同時にこのブログとかでコミュニティについて考え、コミュニティを作りたいと考えているこのよく分からなさに自分でなにこれって思ってる。

どんなコミュニティを想像して、何を理想としているのかが自分で分からない。もしかしたら強い疎外感を作るためにコミュニティを考えているのかもとも思う。

ここにはきっとアンビバレント(両価感情、両価性)を持つ何かがある。

今、僕はたぶん尾崎の気持ちに寄り添えそうだって思う。ちょっと替え歌になるけど

「僕が僕であるために書き続けなきゃならない」

「正しいものはなんなのか それがこの胸に解るまで」

誰に頼まれてるでもないけど僕は悩まなくても良いことを悩み、書かなくても良いことを書く。

ブログだったり、小説だったり、形式は色々だけど、正しいことを書くのではなく、何はなくとも書いて納得して、書いて分からなくなってを繰り返し続けることが、僕が僕であるために必要なことな気がしている。

【レゾンデートル】自己完結する存在価値のはなし。(完)

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