読書体験ってなんだろう。目で見るのとは違うプロセスで、何かが内面に立ち上がる。

自分で考える創作論

「映像化不可能と言われた作品がついに実写化!」みたいな惹句を見るとつい反応してしまうんだけど、このフレーズがすごいと思うのは、映像作品も小説作品もどっちも気になるというところだと思う。

原作小説を既に読んでいたら、「ほお、アレを映像にね。どんな感じになるんだい」って映画が見たくなるし、そもそも原作も知らないヤツだったら映画見たあととかに、「これは文章だとどう表現されてるんだろう…」って気になる。

「映像化不可能」っていう言葉の持つキラーフレーズ感は文字世界でしか表現できないものを見事に描き切ったという筆者を褒める感じと、それを映像で表現できるまで技術を発展させた現代すごい!って感じの両方を味わえるところにあると思う。

でも、映像技術とかに詳しくない僕なんかからすると、「逆に今映像で表現できないものってなんなの?」という感じもある。今はどんな表現が実写化されても驚かない。

だから「映像化不可能」っていうフレーズの賞味期限も切れてきたのかしらと思ってる。

それに加えて、「じゃあ、映像技術が発展していくにつれて相対的に小説の技術みたいなものは衰退していくか、無用になっていくのかい?」という心配もある。

つまり、映像の発展を見てすごーいと思う機会はどんどん増えるけど、小説を読んですごーいと思う機会は減っていくものなのかい、という話。

もしそうだとしたら、素人ながら小説の魅力を信じ、小説を書こうとする僕にとって悲しいことだ。

だからここでは、「映像を見る体験」と「小説を読む体験」は全然別物なんだ、映像技術が小説という表現を駆逐させることはないし、小説はあくまで小説だからできることがあるんじゃないかという話をしたい。

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小説世界は何次元?

小説に限らず、例えば漫画作品が映画化とか実写化とかされることがあるけど、これって何がすごいって、二次元の世界から飛び出して、その世界が僕らと同じ次元に顕現したというところですよね。

あのキャラクターが動いてる!喋ってる!というすごさ。それでもスクリーンから出てくるわけじゃないんだから二次元には違いないんだけど、スクリーンの向こう側にはその世界の三次元が広がっているという感覚は面白いものです。

でも考えてみれば、小説って何次元なの?マンガは二次元。小説も紙に印刷された限られた世界で構築されてるんだから二次元、かと思いきや、これはもう一次元じゃなかろうか。

考えてみて欲しいのです。

文字なんて点ですよね。

薄目で眺めたら文字なんて点と点と点と点が点々と続いてるだけです。辛うじて意味を知っているからそれぞれの点の意味が分かってただの点には見えないかもしれないけど、知らない文字並べられたことを想像してみれば、文字はただの点だということが納得できるはずです。

文字を読むということは、その点々を一つずつなぞって、意味を作っていくという作業。

             

それぞれは大した意味のない点も、しかるべき順番で並べれば意味になる。

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小説を読むという体験は、点を辿って絵を作るあれに似てる

小さい頃に、点から点へ指定された順に直線を引いていって、最終的に絵を作るというヤツをやったことはないでしょうか。

僕はあれがけっこう好きで、絵心なんてまるでないのに、言われた通りに点を繋ぐだけで動物のシルエットが描けてしまっていたりする。

おー、と思う。自分では全く描くつもりのなかった意味が、点を辿ることでふいに表れる。

もちろん、途中からどんな絵が出来上がるのかは分かってくる。そんなに複雑なものは無いし、子ども用のドリルだから。でも、今まさに自分が描き出そうとしているものの「意味」が分かり始めたときのワクワク感というか分かった感は、感動と言っても良い体験です。

これは描かされた絵なのか?それとも自分の手で描いた絵なのか?

描かされた絵であり、自分の手で描いた絵です。

初めからそれはそこにちゃんとあったのかもしれないけれど、自分の手を動かさなければ表れなかった絵であり、理解できなかった絵。

小説を読むというのは、この作業に近いのではないでしょうか。

文字を一文字ずつ辿って読んでいく。「小さな意味」を積み重ね、そういう点を繋いでいくうちにやがて「大きな意味」が生まれる。

読み終わったあとには、今まで自分の中にはなかったものの存在・概念・シルエットがありありと現れている。しかもそれは紛れもなく自分の目が辿った点の集合によって作られたものである。

この感動の体験が小説を読むという体験なのだと思うのです。

自分を通さなければ展開しない世界

しかも小説はただ意味の形が表れるだけじゃない。

文字を辿る過程で、香り立つこともあれば色彩を感じることも音を感じることもある。

とても不思議な体験です。

文字という点をただ目でなぞっていくだけなのに、あらゆる概念が自分の内側に作り上げられていく感覚。

決して映像作品にそういう感覚が無いと言っているワケではありません。映像を見るというのはまた独特の体験があると思う。

しかし、映像は究極自分がいなくても世界が展開していくのに対して、小説はこの自分がいなければ展開しない。自分がページを手繰り、目を動かさなければ展開しない(これは漫画も同じだけど、漫画の場合は半分くらい映像的。これもまた特別ですね)。

DVDプレーヤーがあれば映像作品は再生されるけれど、小説作品は自分を通さなければ再生されない。この体験は特別なものだと僕は思う。

それに、言わばハードである自分の感性や能力を磨くことで、一度目に読んだときと二度目に読んだときでは全然違うものとして展開されたりもする。

だから仮にあらゆるものを映像で再現できるようになったとしても、依然小説には小説の役割があって、それが損なわれることはない。

『大聖堂』目でみるのとは違うプロセスで内面に立ち上がるもの

この記事を書いているうちに、レイモンド・カーヴァ―の『大聖堂』という作品のことを思い出しました。

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

こんな話でした。

ある夫婦の元に、妻の方の古い友人であるという盲人がやってくる。

夫ロバートの方は正直あんまり面白くないんだけど、そこそこ付き合っているうちに夜が深まり、妻が先に寝室へ行き、成り行きで二人っきりになってテレビなんかを見ているうちに、ロバートはふと、あなたは大聖堂って言われて分かるんですか?みたいなことが気になって質問する。

ロバートは口で大聖堂ってものを説明しようとするんだけど全然うまくいかない。大きいんですとか、石でできてますとか、大聖堂ってのは信仰心が反映されてるんだみたいなことしか言えない。こんなんじゃ全然分かんないですよねーみたいになる。

でもこうなりますよね。

例えば試しに「神社」を見たことない人にそのビジュアルを説明してみてほしい。

「えーと、木造で、中には神様が祭ってあります。神様っていうか、ご神体?あ、あと鳥居があります。え?鳥居って言ったら…両側に柱があって上の部分は繋がってて、あー、鉄棒みたいな形状で、大きいんです。神社の入り口のところにあって、真ん中は神様が通る道だから、参拝客は鳥居の端を通るんです」ってなりませんか。

で結局「神社」はどんなものかっていう視覚的な説明が全然できてないことに気付く。

盲人のお客さんは落ち込むロバートにこんな提案をします。じゃあ厚めの紙とボールペン持ってきて、一緒に描こうよ!って。

大の男2人が一つのペンを一緒に持って、ロバートも目を瞑って、一緒に大聖堂を描く。

そこに奥さんが降りてきて、え、何してんの?みたいになるんだけど、構わず続けて、ロバートは目を瞑りながら目の前に現れた大聖堂を見て、これはすごいな、って感動する。

こういう風に、心象風景を共に作り上げる感覚が、小説という形式にもあると思う。

目で見るのとは違うプロセスで、内面に立ち上がる概念や景色を共有する。

 

読書体験ってなんだろう。目で見るのとは違うプロセスで、何かが内面に立ち上がる。(完)

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