僕は文字を読むのが遅くて、昔から劣等感を抱いていました。
友達と一緒に漫画読んでたら絶対に「おっそ!」って言われるし、漫画喫茶とか入っても一日で読める量に限りがあるから若干損した気分になる。
読むの速いヤツってホントに速いから、「え、ほんとに読んでんの?」って疑いたくなるんだけど、実際に内容は理解してるのでどうやら読んでるらしいのがまた悔しい。
小説だって、一冊読むのに3日くらいはかかるでしょうか。だから一月に30冊とか40冊とか読んでる人は少なくとも一日一冊ないし二冊程度は読んでいるということになります。
読みたい本はたくさんあるのに、新しく出版される本はたくさんあるのに、読むのが遅い!という事実が僕を萎えさせます。読むの速い人羨ましいなって思う。
でも最近は、読むのが遅いってもしかして文章書くのに役立ってるんじゃない?と思うようになりました。
あと作品を楽しむのにも役立つし、猛烈に好きな文章みたいなのがあるのも、もしかして読むの遅い故のことなんじゃない?って思ったのです。
負け惜しみかもしれないし開き直りかもしれないけど、そう考えた訳をご説明します。
Contents
そもそも、なんで読むのが遅いのか。
どうして僕はそんなに読むのが遅いのかって考えたことがあります。
むしろ、なんで読むの速い人は読むのが速いんだろうって考えた。考えたっていうか聞いた。
内心どうしても「本当に読んでるの?」っていう疑問は抑えきれなかったですからね。絶対読んでないよ、少なくとも僕が言う読むと、速読者が言う読むは違うんだよと思ってました。
だからって何人にも聞いた訳じゃないから信ぴょう性なんてないんだけど、特に速いなと思う二人に聞きました。二人!
ちょっと工夫して、「読むときに頭の中で声出てる?」って聞いてみたのです。
すると「え、声? 声はないかも…意識したことないけど、多分…」みたいな返答をどちらもする。
あ、声ない人もいるんだって知ったのです。数は関係ありません。そういう人がいるということを知ったことが重要なのです。
音声認識する僕の「読む」イメージと、映像認識する速読者の「読む」イメージ
二人にしか聞いてないから信ぴょう性なんてありません。
でも読むときに頭の中で声を出さずに読む人がいることは事実で、その二人が読むのめっちゃ速いのも事実です。僕にとっては大きな驚きでした。
僕のイメージで言えば文を読むときは頭の中でナレーターさんみたいな人が流暢に読んでくれてる感じなので、速く読むって言っても最大限早口で喋るくらいの速度にしかなりません。と言っても二倍速みたいな甲高い声で読み上げられることもないので、あくまで普通の人間の早口くらいの速度。
黙読の場合「噛む」ってことがないから実際に声に出して読むよりは絶対に速いけど、基本的には人が普通に喋っている速度以上の速度では読みません。
ところが声を介さずに読めるということは、僕はイメージがしにくいけど、「文字情報をそのまま頭の中に入れてる」ということになります。映像を見るのに近い感覚でしょうか。
それなら確かに漫画なんて一瞬で読み終わるだろうし、「速読」みたいなことも可能なのかなと思いました。
ブログ記事とかは読むの速くなるなそういえば
考えてみれば、僕も「情報収集」だけを目的とするときは読むの速いです。
多くのブログ記事は知りたいことだけ分かれば良いし文章の流麗さなんて期待してないから、自ずと読み方がスキャニングに寄って、頭の中では「アアーデゥワダダー」みたいな言葉になってない言葉みたいなのが流れてます(一応内容は認識してる)。
そんで、「…ワダダー1歳の誕生日の時の体重が生涯を通しての理想体重だと…ダダアータタ」みたいに必要キーワードだけやたら鮮明になる感じ。(猫の理想体重の求め方 うちのこはでぶ猫?? 参照)
文章を読みたくてその記事に辿り着くより、検索を経てたどり着くブログ記事は視覚情報に特化していた方が読む人に親切ってことだし、画像や絵を使うと読まれやすくなるってことですよね。
多分日ごろから視覚情報として文章に触れている人は、つまり読むのが速い人は、僕がブログ記事を読むときに不鮮明になる声のあたりがもっと鮮明に理解できているのでしょう。これを鍛えるといわゆる「速読」になるのかな?
映像的に読む人は文章のリズムをどう扱ってるんだろう
でも、声になってないってことは、文章のリズムとか、句読点とかはどう扱ってるんだろう?という疑問は残る。つまり耳で感じるべき文章上のあれこれはどれくらい認知できるんだろう。
速く読める理由は(一応)分かった。でもそれじゃこの作家の文章が好きとか、癖とか、そういうのを吟味するのは難しくないか?と思いました。
例えば、太宰治は比較的「読点」が多い作家だと思います。
試みに『女生徒』の冒頭を引用してみる
あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合わせたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。
この肺活量が足りない感じ。誰に聞かせるというつもりもない呟き。
これ若い女の子が語り手だからなんじゃないの?って思う人もいると思う。わざわざ特徴的な作品引っ張って来たんじゃないのって。
『人間失格』の冒頭も引用してみる。
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
一葉は、その男の、幼少時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定されるころの写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、そこ子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹たちかと想像される)庭園のほとりに、荒い縞の袴をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。
確かに『女生徒』を先に引用したのはちょっと作為があったのは認める。けど『人間失格』の冒頭も、特別になくても良いところに読点があることは分かると思う。
作品によって意識的に使い分けているようだけど、太宰治のリズムとも言うべきものは確かにあると思うし、そのリズムを作る特徴的な原因が読点にあるとも思う。
でもここではそんな話をしたいのではなくて、例えばこういうこと、頭の中で声に出さなければ分かりにくいんじゃないかなと思うのです。
音楽を聞き分けるように、文体を見分ける
太宰治に限らず、どの作家にも独特の文章リズムがあるものだと思います。
特に文豪と呼ばれる作家たちの文章は一目でそれと分かるリズムがある。もちろん語彙とか論理構成とか色々なものが混ざり合ってその人独特のものになっているからリズムだけで判断する訳にはいかないけど、リズムは文章を特徴付ける重要な要素の一つではあるはず。
だから、例えば冒頭文を読んで太宰治の作品なんじゃないかとか、これは宮沢賢治、これは夏目漱石、これは谷崎潤一郎っていう風に感じるときの判断って、頭で理屈付けて考えるというよりは、音楽を聞き分けるときの感じと似てる。
こんな感覚で文章を読めるのは、もしかしたら頭の中で声を出しながら読むタイプの人じゃなきゃ、耳で読むタイプの人でなきゃうまくできないことなんじゃないかなって思った。
ちょっと自慢気に語っても良いことなんじゃない?って(割合的には声を使って黙読する人と目で読む人は半々くらいなんだろうけど)。
耳で読むから、できること
だって文章のリズムを感じられる人なら文体のコピーとかもできるだろうし、情報としてというより文章として心地良いものを読むことができる(好きな音楽を聞く感覚で文章を読める)し、文章の芸術である小説は絶対に頭の中で声に出して読んだ方が面白いと思う。
極端なことを言えば、映像的なものばかりに頼ってたら読みやすくてエンターテインメント性に溢れた、つまり映画化するような作品でなければ面白いと感じられないんじゃないか。
だったら、少なくとも文章を書く機会がある人とか、本が好きって言う人は、読むのに時間がかかる、声に出して黙読するような、耳を使うような読み方が得意な方が、有利なのかも。
こう考えると、読むの遅いのもまんざら劣ってるばっかりじゃないぞ。良い面もあるんだぞっていう気分になった。文章を楽しむためのスキルだぞと。
けど同時に気づいたんだけど、多分状況とかモノに応じて読み方を難なく使い分けたり、映像的にも音声的にも文章を捕らえたりできる感受性が強い人がめちゃくちゃいっぱいいるんだろうな。いやもしかしたら僕以外の人はそうなのかもしれないぞ。
まだ、劣等感が。
読むのが遅くていつも劣等感。/耳で文を読む人のアドバンテージ(完)