「みんなが一丸となる」って気持ち悪い。

全体が一丸となってとか、構成員の意思統一を図るという感覚が苦手だ。

まちおこしや何かの運動で、地域住民が一丸となって…みたいなことを聞くと第一印象として、必ずしも素晴らしいとは感じられない。 むしろ気持ち悪いと感じる。

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一丸になってとかって学校祭思い出す

目標に向かってみんなでというスローガンは、小さい頃から馴染みのあるものだと思う。

学校は集団行動が多いし、まさにみんな一丸となってやることが多いから。

本当に幼いときはみんなで頑張ると言っても自主性とか他人の存在も自分の存在も確固としてなくて、漫然としていたと思う。

だけど高校生くらいになるとだんだん物心がついてきて、他人というものを意識出来るようになる。

むしろ自我が芽生えた方が意思統一とか一丸となるのは困難だから、小さい頃から教え込まれたスローガンはどんどん難易度が上がっていく。

学校祭なんかどこの学校にもあると思うけど、あんなにクラスが一丸となることを要求されることもないのではないか。

もちろん温度差がある。

大体学校祭の行事に本気なのは全体の三分の一程度で、残りは大人しくしてたい人だったり、ただ通常授業が減ることが嬉しい人だったり、他のことで一生懸命で学校祭を邪魔に思っていたりする人で構成されているものだと思う。

だけど学校祭という行事がある以上、意思に関係なく学校祭的な行動をとらなくてはならない。

多くの学校にとって、学校祭があるということは基本設定なのだ。

そうなれば当然やる気のある人が目立つし、牽引することになるし、主導権を握ることになる。

そうでない人はなんか怒られたり、説得されたり、嫌味を言われたり、人の青春に巻き込まれたりする。

どこの学校でも基本的にはそんな感じだと思う。

そんな行事を繰り返して、高校時代の思い出を作ったり、かけがえのない仲間を作ったりして、多分各クラスで○○組最強!とか言って写真を撮る。

一方で静かな達成感に浸る人がいて、ろくでもない思い出を作る人も、絆が深まるどころか友達と仲たがいする人も、自分の大事なことに支障を来す人もいる。

そういう雑多な意思や雑多な青春が入り乱れて、「学校祭」、もっと大きく言えば「学校」や「青春」は出来ている。

全部が唯一無二の思い出であるはずなのに、遠目に見るとありふれた話のひとつになってしまうのが不思議だ。

桐嶋、部活やめるってよで見た多様性

桐嶋、部活やめるってよ』という映画をご存じだろうか。

原作は読んでいないが、映画は面白かった。 高校のヒエラルキーや立場の違いを鮮烈に描いた青春作品だ。

何かに熱くなっている人も、別の視点から見ると勝手にやってろレベルの雑事に成り下がる。

恋愛感情を最優先に生きている人もいれば、それを軽蔑する人もいる。

映画部にとって大切な小道具もバレー部には腹立ちまぎれに蹴飛ばして良いゴミに見える。

いかに誰かが熱くなっている出来事も、そこに意味を見いだせない人は必ずいる。

意思に統一なんて図れないし、みんなが同じ価値観で生きるなんてことはできない。

だけど、だからこそ食い違い、それぞれ自分の大切なものを守るために熱くなっていく、それぞれ自分だけの青春が生まれ、かけがえのない物語を作っていく。

青春という名の元において、生き様に上下はなく、勝ち負けもない。

どれだけ自分だけの青春を送っているつもりでも、「学校」という入れ物がある限り、全てよくあることだ。

どんな変わった人も必ずクラスに一人はいる奴に見えるし、どんな恋愛もパターン化される。

色んな人が色んな思惑を持ちながら一所にいて、一つのことを成すということが大事だ。

学校は、多様な人間がそれぞれ違う方向を向きながら、それぞれの持ち場で全力を出せる環境を丸ごと呑み込めるような入れ物だ。

問題や青春がそこで生まれ、ありふれていても俯瞰すると魅力的な物語を作るようになる。

そういう入れ物のひとつであるはずの「町」で、一丸となろうとする意味があるだろうか。

その努力こそが多様性を浮き彫りにするスイッチかもしれないけれど、一丸とならなければ進まないことなら、そもそもそういう基本設定になっていないのだ。  

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