生き方に正解なんて無いとは言うけれど、僕らはやっぱり、できれば自分の人生だけは正解であってほしいと考えるものだと思う。
目指しているもの、いま力を入れていること、好きなもの、人生のパートナー(仕事とか生活とかいろんな場面で)に選んだ人間、日々のこだわりや信念が、ことごとく自分の人生にとっての最大幸福に繋がる選択であることを望む。
生き方に正解なんてないよ。
いや世の中に正しいことなんて一つもないんだよ。
やたらとそんなことが言われるし多分多くの人は同意するけれど、「実際あるじゃん、世の中に正解って」と思うことはある。
そりゃ正解が人それぞれで、人の数だけあるってのは分かるけど、だからと言って生き方に正解はないというのは言い過ぎだとも思う。
少なくとも、「自分にとってこれが正解」ってのはあるだろう。「正しい生き方」ってあるだろう。
じゃあそれって具体的になに?それだけ聞くと「社会的な正しさ」と大して変わらないような気がするけど。自分にとっての正解って、束ねて眺めたらそれなりの法則があるもんなの?
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僕らはとにかく思い通りにコントロールしたい
僕らの人生にとって正解ってなんだろう。
ざっくり言えば「自分に感じる強さ」だと思う。
「強さ」って言ってもやっぱり漠然としているから、「支配力」とかそんな感じ。
人間はコントロールしたい生き物だと言います。
自分の思い通りにならないことがすごく嫌いです。
これは確かにそうですよね。
だからコントロールできる領域が大きければ大きいほど、満足度の高い人生を送れることになる。
お金はないよりあった方が良い。コントロールできる品物(買って自分のものにできるもの)が多いから。
社会的な立場は上の方が良い。コントロールできる人が多いから。
知識は多い方が良い。コントロールできる思索の自由度が上がるし、無知ゆえに騙されて支配される機会が少ないから。
健康であった方が良い。イケメンの方が良い。趣味はあった方が良い。
どれもこれも社会的に価値のあることだけど、そういうものはたいてい、支配力という力を持っている。
支配できるもの、思い通りに動かせるものが多ければ多いほど、人間は幸せを感じるし、人間は幸せになるために日々、毎秒、努力なり選択なりをしている。
支配できる範囲が大きい方が幸せなら、一番は王様か独裁者の人生?
僕らほんとうに支配できる範囲、コントロールできる範囲が大きければ大きいほど幸せを感じられるとして、幸せの多い人生が正解なのだとする。
ということは、王様とか殿様が一番幸せ?独裁者の人生が一番?
いや自分がすべてのコントロール権限を持ってるってめちゃくちゃしんどいですよね。
エアコン・テレビ・スピーカー・照明などなどすべてのリモコンやすべてのカギを押し付けられてる状況ですもんね。
温度や見る番組や聞く音楽、音の大小・温度の高低をすべてみんなのこと考えて管理しなければならないって逆に奴隷で、その状態が気持ち良いなら良いけど、たいていの人は「えーなにこれ。」って思うはず。
だからあくまで僕らの社会では、「自分が思うままにコントロールしたいと思う範囲では」支配できる領域が大きい方が良いし、自由にできる部分が多い方が良い。
あくまで自分のキャパシティ内、なわばり内で強くなりたいと思っている。だから中には昇進だって負担になる人もいて、それは世間的には正解ルートの、正当なルートの人生なんだけど、個人にとってはあまり幸せなことでなかったりする。
こういうことはあるけど、今は基本的に「自分が思うままにコントロールしたい領域」を選ぶのは自由なんですよね。どの部分を思いのままに操りたくて、どの部分は別にどうでも良いから誰かに任せるわって誰でも心に決められる。
自分がコントロールしたいと思った領域を本当にコントロールできるかは分からない。
でも、「私はここを支配したいのだ」と志すのは自由だし、もちろん「ここの支配権は握りたくないなあ」ってことを避けることもできて、その意思自体には誰も文句を言う筋合いはないから、この世は基本的に平等社会なんだなだと思う。
社会的な正しさと、自分の正しさはやっぱり違うんだろう
だから、世間的には派遣社員とかよりは正社員の方が人生としては正解っぽいし、貧乏よりはお金持ちの方が正解っぽいし、ブサメンよりはイケメンの方が正解っぽい人生を歩んでいるように見えるんだけど、それで本当に幸せなのかは本人にしか分からないし、立場や置かれた環境で外から幸せ度を測れるものでもない。
いやイケメンでそれなりに苦労してるとかお金もちもあんま良いもんじゃないよって言われても全然説得力ないけど、支配力が強い人は興味ないリモコンやカギまで管理しなきゃならないって苦労は確かにあるんでしょう。
イケメンやお金持ちで言ったら興味ない人に付きまとわれてしまったり、買わんで良いもの買っちゃったりすることもある。
コントロールできるということは往々にしてコントロールしなきゃいけないってことだから、その辺のマネジメントで消耗してしまうことがあるということは想像ができる。
で、僕ら「自分がコントロールしたい領域はここなんだ、ここを支配することに全力を注ぎたいんだ」ってことが漠然としてると、とにかく成功したい、正解を歩みたいと考えてしまって、社会的に価値があるとされる力を得ようとする。
お金があれば人生うまくいくんだ、顔が良ければうまくいくんだ、話がうまければうまくいくんだ。頭が良ければ良いんだ。
それは、確かにこの社会ではどれも一定の支配力を持つのかもしれません。何だかんだお金持ってる人の言うこと聞くことになるだろうし、顔が良ければ異性を選び放題だと思っちゃう。そうじゃなくても仕事で有利そう。話や文章がうまければ人をだましたり言いくるめたり(言い方)することもできるかもしれない。
でもそんな漠然と成功してどうするのか。漠然と他人に羨ましがられる人生を目指して、本当に自分がこの手で何とかしたいと思っている領域には関われないのであれば、結局それが正解なのかどうか分からない。
社会的な正しさと、自分だけの正しさはやっぱり全然違うものなんだろう。
漠然とした正解を目指すと社会の要求が激しいように見える
成熟した文明と言うけれど、たしかに今の文明に生きる人の成熟度は高まっているんだろうなと思う。
なんか、何となくだけど社会に要求される水準がどんどん高くなっていってるような。
男女問わず容姿に気を使うのは当たり前だし、コミュニケーション能力に対する要求も高い。
要求される知識水準もどんどん高まってる気がする。加えて洗練されたモラルやセンスを持ってなきゃいけない。そんな気がする。
これはまだ分かりやすいけど、僕らはあの手この手を使って他人をコントロールしようと考えるものだと思います。他人をコントロールできる可能性があるものであれば、是が非でも身に付けなきゃと考えると思う。
へりくだったり頭を下げたり弱みを見せたりすることもあるでしょう。大人になるに従って謙虚さとか腰の低さとかプライドの捨て方や隙を身に付けることもある。それは美徳からではなく処世術として、他人をコントロールする手段として会得される。
生きるために、より良い人生を送るために、人生を正解にするために、僕らは「人間力」を身に付ける必要がある。要求される正しさを身に付ける必要があって、正しさを身に付けた人は正しい人生が送れると思ってしまう。
時代によって生き方の正解も変わるのはよく分かる。時代や場所によって、他人を支配することに成功するまでの手続きが違うのだから。
今社会に要求される普通の人間力を身に付けるだけでもういっぱいいっぱい、ってかほとんど身についてないから僕なんかは辛いんだけど、じゃあこの状況で僕の人生を「正解」にするのは難しいんだろうか。
いやそうでもない気がする。僕がどうでも良いと思っていること、僕が支配して、コントロールしたいと思っているものがちゃんと明確にあれば、それだけ目指して精進すれば良いのだから。
僕は何を思い通りにしたくて生きているのか。どのリモコンを握っていたいのか。それがちゃんと分かれば、漠然と社会人に要求される要件のほとんどは必要ないんじゃないか。
僕が文章を書くのは何をどういう風にコントロールしたいからだろう
では、僕が文章を書くのはどうしてか。
愚問である。そんなの、読んでる人の心を支配したいからです。
ここまで読んでくれてるか分からないけど、今読んでるあなたの心をコントロールしたいと本当に思っています。
じゃあ今僕の理想通り、あなたの心が僕の支配下にあるとして、それでどうすんのかと言えば、多分次は行動で表してほしいのだと思う。
すごく高い要求ですよね。でも文章が目指す核の部分の欲求はそこのはず。どんな文章も。
問題は、仮になんとなく何かを心で感じることがあっても、僕の文章を読んで、具体的にどういう行動を取ることを僕が望んでいるかが分からない点なんですよね。
例えば、何かのPR記事だったら商品の購入なりアプリのダウンロードなり会員登録なりが読んだ人に要求する理想の行動なんだけど、このブログはそんなの頼まれるようなレベルにないからそういうのはない。
じゃあこれはまちづくりをテーマにしてる記事だから、誰かが僕の町に移住してくれることを望んでいるか?と言えば、望んでないことはないけどこの文章では求めていないし、ブログ全体でもとくに強くは求めていない。
でも例えば、夜寝る前の睡眠導入剤みたいに使ってくれたらなと思って書いてます。
もしくは昼休みとか空き講の時間に話し相手もいなくて微妙に時間潰さなきゃならない人にはちょうど良い文章かも。
あとあと、誰かと煮え切らない話をしたり、変に話がヒートアップしてしまったときなんかは重くもない軽くもない記事ってけっこう良いんじゃないか。
なんかこう、色んな人の空虚な時間を埋めたり、頭がざわつく日の逃げ場所になったら良いなと思ってる。だから、どちらかというと誰かの行動の先にこのブログがあったら良いなと考えているんですね僕は。
もしそれができたら、それが僕にとっての「正解」だと思うし、そういう正解を積み重ねていく僕の人生も正解になると思う。
もちろんこれは「文章」に関することだけの話ですから僕の欲望の一部です。
コントロールしたい領域なんか数限りない。幸せは求めだしたらキリがない。
良い人生とか幸せとか正しい生き方とかいう言葉はあまりに漠然としていて、それを達成するためにはどこを目指せば良いか、どこから手をつければ良いか分からない。どうせならすんなり正解は一つしかないと言ってくれればよいのに、正解はいくつもあると言うから困る。
でも自分が何をコントロールできたらうれしいかっていう問いに答えるのは比較的簡単なんじゃないかと思う。思い通りにしたいものはなんだろう。いいから言うこと聞けやって思うことはなんだろう。
それが分かれば、あとは現代的なやり方で、自分の我を通す方法を考えれば良いんだろう。
支配したいものをちゃんと支配できていれば、自分の生き方は正しいと言えるんじゃないか(完)
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