【坂口安吾】『堕落論』は戦後に著されたが今読んでも勇気がわく

好きな作品と雑談

坂口安吾の『堕落論』って読んだことありますか?

名前は超知ってるけど読んだことないなーって人が多い作品だと思う。

もしくはむかーし読んだけどいまいち意味が分からなかったとか、何となく覚えてるけど何の話だっけ?って人が多いのではないか。

僕も久々に読み返してみて、ああ学生時代に読んだときよりなんか心に響くな、勇気が湧くなと思ったので、堕落論についてのその辺の記事を書きます。

青空文庫へのリンク『堕落論

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坂口安吾は文章がかっこいいおじさんの筆頭

坂口安吾って僕の中で文章がかっこいいおじさんの筆頭と言っても良い作家です。

小説の方が親しんでいて、『桜の森の満開の下』とか『夜長姫と耳男』なんかのファンが多い作品から坂口安吾を好きになった、ミーハーな僕です。

読んだことない人は青空文庫で読めるのでぜひ読んでみてほしい。どちらも耽美で力強くて坂口安吾の魅力が詰まっています。

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坂口安吾の文体

さて堕落論。

僕の中で坂口安吾はすごく男らしい筆致を女性性で包んで人を打ちのめすみたいに見える、なんかすごく愛と勇気を呼び起こさせる文章なんですよね。

ここで言う勇気ってのは、勇んで戦うとか挑むとかではなく、肩の力を抜くとかいなすとか、そういう方向の勇気。

場合によっては僕ら、肩の力を抜くとか、立ち止まって落ち着くとか、開き直るとかの方が勇気がいることってありますよね。

堕落論はまさに「躍起になんな、落ち着け、大丈夫だ、ビクビクすんな」って、逆立ている毛を笑うような文章に僕には見える。そんな男らしい愛と、女性らしい勇気。

堕落論の名言

堕落論は戦後に発表された。

負けた日本が堕落していく。堕落するのは負けたからではない。人間は本来堕落するもの。意思は弱くなるものだし、怒りにも悲しみにも、いつまでも浸ってられないもんだよ、って話をしてくれていると僕は思ってる。

終りに近い文章だけど、以下は名言だと思う。めちゃくちゃかっこいい。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。

堕落を肯定している、というわけではきっとないです。

堕落にも耐えられない弱々しい僕らの、どうせ勝手に立ち上がってしまう人間性を肯定している。

弱さゆえの強さを持ってる僕らは思った以上に柔軟だ。

戦争に負けた屈辱とか、失ってしまった悲しみの中でこんな文章に出会ったら泣いてしまうと思う。

人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」

僕らは堕ちまいとするし、堕ちたらおしまいだと思ってる。

堕落論では戦後帰還兵が闇屋になることとか、戦後未亡人になった女性が新たに男性になびく姿を挙げながら、負けたから堕ちるのではなく、人だから堕ちるのだ、それは自然なのだと説く。

特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。

堕落を恐れて、堕落していく命を諦めても、そんな栄光も意地も大したもんじゃないだろう、と言う。それは幻影。作られた美徳。それより生きるべきだと言う。堕ちても生きろではなくて、我々が生きることは堕ちることで、生きていれば堕ちるが、それが本当に生きることだと言う。

日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。

 

堕落論は現代に読む価値はあるか

堕落論は戦後に著されたものだけど、この時代にもまだ、堕ちることを受け入れない精神はある。

仕事を辞めるとなると根性が足りない、我慢弱くなってると言う人は意外なほど多くいるし、離婚と聞けば男の甲斐性がないとか、女がわがままだとか言う人がいる。

僕らなんとなく世間一般に横たわる美徳や道徳に御されてしまうことがある。

越えるとたちまちダメなヤツになる見えないラインみたいなのがあって、それを越えることを過度に恐れたりしてしまう。大人になればなるほど、そういうものを盾にして、誰かを制しようとする傾向にある。

現代に当てはめると些か矮小になってしまうかもしれないけれど、忍耐を美徳とし、誠実を褒めそやす精神は戦後と変わらずにあると思う。

僕ら堕ちることを怖がってなかなか新しい扉を叩けないことがあるけれど、こころが欲するままに動いた先が、世間的に何となく暗黙の了解で越えちゃいけない、見えるようで見えないラインってことがある。

そういうラインを越えずに生きることこそが立派で誠実だとしたいのはラインを越えられなかった人であって、つまり堕ちる気持ちを抑えて堕ちきれなかった人である。

もしその先に自分が望む自分の姿があるのなら、誰かの都合で拵えられた幻影に惑わされず、生きよ、堕ちよ、というのが堕落論。

続堕落論

堕落論には続きがあります。

続堕落論

堕落論が少々きれいに締めすぎた女々しい文章だとしたら、続堕落論はもっと雄々しい主張がはっきり示される文章です。よかったら併せてどうぞ。

先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ落ちよ。復員軍人は闇屋となれ。堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血をけ、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまにちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本のを血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。

力強い文章。ここまで言われると逆に「さ、坂口さん、ちょ落ち着いて」と言いたくもなるけれど、僕らたまにこういう風に言いきってほしいことがありますよね。

『続堕落論』は締めがかっこいいですね。それぞれの人生の文脈で心に響くこともあろうと思う締めです。引用して終わりにします。

生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれ、ということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。

 

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