挑戦できる環境の2段構造!!

一般的には大人になるに従って挑戦のリスクは上昇します。

子供の頃であれば思いついたことすぐやったものです。
成功するとか失敗するとか関係なく。

それができなくなったのはいつからでしょうか。

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子供はチャレンジング

子供ってアホなことばっかりやってますよね。

絶対無理でしょってこともやる。

友達に特にチャレンジングだったヤツがいるのですが、そいつは「浮けるかどうか」を確かめるために、天井にガムテープを張り付けて、そこに頭をくっつけてから、そろりと足を地面から離すという挑戦を繰り返していました。(ベッドが背の高いヤツだったから天井が近かった)

いや絶対無理なのは分かってるんだけどね笑

でも「ダメだー」とか言いながらそういうことしてるのが面白かった。

まあだからと言って、そういう一見無駄に見えるアホなことが今考えれば成長に繋がっていて…とかいう話しではありません。

無駄なもんは無駄で笑

そんな他愛もない話を引き合いに出して、大人と子供の挑戦に対する姿勢を論じようなんてなんかナンセンスっすって感じだ。

だからこれはただの枕であって、単純に子供の頃はなんも考えんと色々やったなーって話。

 何も考えずにやらない大人

なぜ挑戦が段々難しくなっていくかと言うと、段々それが怖くなっていくからです。

それってなに?

つまり何を怖く感じるのか、というと「失敗」と思うかもしれませんが、「挑戦すること」自体が怖くなるのだと僕は思います。

大人は失敗したときのリスクが大きいとか、学習経験があるから失敗が目に見えてるとか、そりゃそういうこともあるけど、多分そこまで考えるまでもなく挑戦なんかしませんよね。

子供が何も考えずに挑戦するように、何も考えずに挑戦しない。

価値観の多様化とか個人化の時代とか知ったようなこと言ってるけどさ

でお話した通り、大人になるということは不安定や揺らぎに動じないように足場を固め、それを積みあげていくものだという認識がどこかにあるのが社会というものです。

人生が航海のようなものだとしたら、常に形を変える波の動きは脅威でしかありません。

なぜ脅威なのかと言うと基本的には予測できない相手だし容赦ないからです。鼻に水が入ろうが足をつろうが波は揺れ続けます。

だから出来るだけ安全な航海をするために、多くの人は頑丈な足場を作って動かないという選択をしました。

その足場を固くしていく程、高くしていく程、波の脅威は確かに小さく見えるし波に怯えることも不要のようになりますが、波までの距離が異常に長くなって、怖くなります。

何も積み上げていない段階であれば浮き輪のひとつでも持っていればばしゃばしゃと浅瀬で遊ぶこともできたのに、今や水に塗れるのも勘弁という状態。

コツコツと大事なものを積み上げれば積み上げる程、波、つまり挑戦までの距離が大それたことになってしまうのです。

だけど挑戦(波)そのものは小さく見えるから、どちらかというと挑戦は恐れるというよりも取るに足りない、自分がやるに及ばないものに見える。

なんて自分がそんなことしなきゃならないの?
なんで不要なリスクおかさなきゃならないの?
遊んでる暇はない

って感じで結局やらない。

積み上げ式は挑戦する気持ちを潰す

だからって別にそういう積み上げた土台的なものを否定する訳ではありません。

こないだはその土台を例えば「定職」とか「結婚」とか「住まい」という風に位置づけましたが、それらを大切にすることは当然だし何も否定するところはないでしょう。

もちろんそこに「学歴」という土台を加えるとか、そういうことは人によって土台の種類も若干違ったりするだろうけど、何を積み上げようと僕には否定なんかできない。

だから東大目指してどうすんの?とか有名企業入ってどうするの?とかマイホームとかアホじゃないかとか、結婚制度そのものが古いとか、そういう話しもたくさんあるしどれも一理あると思うんだけど、人生そのものが航海であって、つまり波のような大自然を相手にするような、それだけでチャレンジフルなはずの環境において、正解なんてないでしょう。

なにやってたってどうなるか分かんねえよ、っていう諦観のような思考に至るしかないし、そうなったらもう好きなようにやる、信じたことをやるってこと以外に際立った方針なんかない。

ただ、僕がその土台を積み上げることを揶揄するのは、それが土台のようだからであって、何がなんでも守らなければならないものかのように扱われるようでありながら、実は自分を守るための要塞のような状況であればこそです。

定職とか結婚を大事にするのはそりゃいいでしょう。

ただそれは体を全て預ける土台なような形をしている必要はなくないか。

土台っていうのはあくまでイメージです。

あなたにとってのそれは土台なんかじゃなくまるで綺麗なビー玉のようだというのであれば、しっかり握りしめていれば良い。

波にもまれようが風に吹かれようが大事に握りしめて、挫けそうになったときに眺めて心のよりどころにするとか、荒天の中を突き進むモチベーションにするとかにすれば良い。

僕が前の記事で言ったのはあくまでいくつもあるうちの極端な1パターンであって、もしこんな状態なのだとしたら、人生は怖いしなかなか身動きとれないししんどいだろうなということだったのです。

これじゃあ、チャレンジなんかできないだろうなと。

チャレンジの受け皿としての島

だからもし、人生は積み上げるものだという感覚があるのだったら、そうならないような仕組みが必要なんじゃないか。

特に何も考えずに手作りのいかだなんか作って大海原に飛び込むような真似ができても良いんじゃないか。

そういうことができるってのはつまり、一見無謀そうに見えるようなそういう挙動を眺めて馬鹿だとか子供だとかちゃんと生きてないとかって判断する目がないってこと。

やるやらない、出来る出来ないより、これやったら馬鹿だと思われるかなとか、心配されるかもとかっていう意識の方がずっとずっと重いものだし、リスキーだと思います。

文字通り海の中で人の足を引っ張るようなことだと思う。

で、「価値観の多様化」が進んでいます。
「個人化の時代」が始まっています、って話に戻ります。

はいみんな自分の価値観の中で、それぞれのやり方で、それぞれが信じるものを目指して自分の航海を頑張ります。決まったゴールなんかないよー、まともな生き方なんかないよーって。

みんながフラットな目線で生きる、つまり波にダイレクトに煽られるチャレンジフルな環境で、必要以上に怯えたり及び腰になったり弱気にならないためにどういうところがあったら良いか。

ああ休憩所のようなところがあったらいいんじゃないか、セーブポイントみたいなところがあればいいんじゃないか、とりあえずの目的地みたいなところがあったらいいんじゃないか。

そういうところがあれば、日頃のチャレンジなんて、普通の波程度の不安体なんて、全然怖くないだろう。

それがチャレンジできる環境の第一段目で、もはやそれはチャレンジしてるって意識もなく実はただ海にぷかぷか浮かんでるだけ。

今まではたっかーいところから見てたからやけに翻弄されてたように見えるし、溺れてるように見えたけど、力抜いたら意外に浮けるもんだぜ、みたいな。

で、なんか地に足つけたいなーってときにふらっと上陸できる「島」がいろんなところにある。

しかも「島」のなかでも色々なチャレンジが行われていて、当然他者のチャレンジも許容されたり、自然発生したミッションがあったりする。

そもそも島側にとっても他者を受け入れるということがチャレンジフルだからね。

この人は何を考えて一体どこに行くんだろう、ここに何を残してくれるだろう、また来てくれるだろうか。

そんなことを考えながら、迎える側もまたフラットな目で、自分だけの挑戦を続けていく。

全編抽象的な話になってしまって申し訳ない。

けど、そういう風に当たり前に次何しよっかなーとか考えて動きやすい環境って理想的だ。

とりあえず海にポンっと手作りいかだで出るくらいは大した勇気いらない、何かあっても上陸できる島がある。

島に降りたら降りたで、そこで何かやってもいいし、また自分のいかだ作りみたいなことを本格的にやってもいい。

チャレンジングな気持ちの受け皿みたいなのが二枚も三枚もあれば良いと思う。2段と言わず、3段構造くらいになってれば良いと思う。

今度はもっと具体的に書こうと思います。

 挑戦できる環境の2段構造!!(完)

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