文明社会の独善的な僕ら。バカにされる優等生とそうじゃない優等生

ここのところ「空想科学少年の話」とか「自動運転技術の発展」の話とか、とか「AIの話」みたいな、ざっくり「文明の発展」的な話題が続いてたのですが、いずれも僕の中にあるモヤモヤを形にするための足場固めのような記事でした。

そのモヤモヤってのは、最近の僕たちは「正しさが好きすぎないか」ということ。

過去に、「人は向上を心地よく思うようにできている」みたいな内容の記事を書いていて、その同じ口でこんなこと言い出すのもどうかと思うけど、最近の僕らは正の方向を目指しすぎで、なんかつまらない気配、くだらないにおいがしないかということ。

まだ正直ちゃんと書ける気がしないし僕の中でも固まっていないアレなのですが、今の時点で考えながら書き始めてみようと思います。

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なんで僕らはネガティブな自分も肯定しようとするのか

「正しさが好きすぎる」ってのは何を言ってるのかと言うと、何となく「優等生」をバカにするみたいな感覚に似てると自分で思います。

「おいあいつまた先生に褒められてるぞ」みたいなイチャモン、もしくはヤッカミくらいに思ってくれて構わないけど、別に特定の誰かを想定して言ってる訳ではありません。

なんか全体的に人間全部が、「正しい自分を求めている」みたいな空気があって、それだけ必死にならないと自分が維持できないほど、僕らが組み込まれているレースは過酷なんだろうか、って考えるだけで億劫になって、布団から出たくない感じ。

僕らは常に正の方向を向いていなければならないのか、僕らは常に日向で朗らかに笑っていなければならないのか。そういう無言の圧力ってけっこうしんどいしうまくできる自信ないから全然ここから出たくないんだけれども…。

こう言うともしかしたら誰かにはネガティブさとか後ろ向きな感じとかを肯定しているように聞こえるかもしれないけど、まさにこの「肯定する」という部分に、最近の僕は違和感を抱いている訳です。

なぜネガティブさとか後ろ向きな感じまで無理くりに「プラス」に捉えなきゃならんのか。それがしんどいって言ってるの、って。

スマートに生きる僕らはロボットっぽい

何でも見ようによって評価が変わったりしますよね。

短所は長所になり得る。

なんでもプラス思考で捉えることで、あらゆる逆境が自分の力になり得る。

ちょっと視点を変えるだけで、日常に散らばる小さな幸せを見つけることができる。

非常に道具的な発想で、人生のコツめいていて、人生の知恵っぽい。

そりゃそうした方が良いこともあるけど、なんかそういう思考を場面に応じて適用するライフハック的なもので僕らは満たされすぎて、みんなのらりくらりと心穏やかに、涼しい顔して歩いてる感じがして、エラーの処理するロボットみたいだなって思います。

このときはこう対処する。

そういうのが蓄積されて言って、「現代社会に適用」していく。

僕らは大人になるに従って、時代が進むに従って、どんどんスマートになって、どんどん画一的になっていって、従って理想的なモデルがあって、それは自分でなくざっくり「時代」とか「周囲」の評価に依るところが大きくて、そういう意味で「優等生」っぽい。

光源に影は差さない。僕らはいつも明るい面が見たいから、「光源」になりたいのでは。

しかし、「優等生」という言葉に込めた皮肉にも語弊はあります。

だって僕はいつだって優等生になりたいと思ってる。

優れた人だと思われたい。でも優れるための努力なんてしたくない正直な話。

優等生って言葉が皮肉として機能するためには、その人が「自分を持っていない」ように見えるという条件が必要です。

先生やママの言いなりで、言われたことをただ黙々とやって、自分で判断するって能力がないように見えるから「やーい優等生」っていう悪口が成り立つ。自分で判断したのではなく、言うことを聞くのが一番無難だからそうしているという弱弱しさがバカにされる。

優等生も、美学やモットーを持って突き詰めれば個性になります。

羽川翼の話をしよう

「優等生」という皮肉が当てはまらないとすれば、僕が何にモヤモヤを感じているかと言うと、文明社会の独善性や傲慢さなのかもしれないと思います。

どういうことかと言うと、僕らは正の方向を目指すとか日向を向いて笑っているというのではなく、既に「正」そのものになりたがっている、「日向」そのものになりたがってるのではないかと思うということ。

光源に影はささないって言うけど、まさにそんな感じで、みんながみんな光源になりたがっていて、それはある側面に光を当てるという行為でありながら同時にどうしようもなく濃い影を作る作業だということが分かっていない。

そりゃ自分から見えれば世の中は明るいだろうけど、それこそ陰の側面を暴力的な光でひた隠しにする独善性が見え隠れする。

さらに言えば、自分ではなく他者を照らすことで(無意識に)自らの影を多い隠そうとするメンタルに「自分のなさ」を感じて、強いて言えばそこが「優等生」的な皮肉につながるのではないかと思います。

文明にはなぜ「明るい」という文字があるのか。

さて結論をどうしようか全く考えれていないのだけど、ここまでで何となく頭の中の整理ができてきた気がします。

僕が何を不満に思っているか、何を面白くなく思っているか。

一つは単純に、例えば黄昏どき、良い感じでお昼寝中なのに部屋に入ってきた誰かに「うわ部屋くらーい」とか言ってスイッチを勝手にバチバチつけられてその挙句「こんな時間に寝てたら夜眠れなくなるよ」みたいなおせっかいを焼かれてるような不愉快さ。

もう一つは、さながら手術室の無影灯のような闇にたいする神経質さ、もしくは小学校の絵画の時間のように、何が何でも空白を埋めようとする強迫観念。

良いものは良いから、正しいものは正しいから、文句は言えないし言ったところで屁理屈にしかならず、融通が利かない。陰影の妙やわびさびが通じない。つまんない。

そういうところにロボットを感じていて、文明の明の字はそう言えば「明るい」って字なんだよなって思って、文明ってつまり辺りを満遍なく照らして画一的な景色にしていくってことなのかな、文明に傾くってそういうことなのかなって考えたけど、ちょっとまだよく意味が分かんないからもう少しよく考えた方が良さそう。

文明社会の独善的な僕ら。バカにされる優等生とそうじゃない優等生(完)

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