学びにもセンスが必要だとして/田舎に必要な教育、学習についての愚考

大抵、マンガの主人公は努力型よりセンス型だと言います。

そういうヒーロー像に対する憧れが先にあるのかそういうヒーロー像がウケるからセオリーになっていったかという話しになるとまるで鶏とたまごの話しのようで答えはありませんが、いずれにせよ、センスに対する憧れは皆持っているのではないでしょうか。

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センスあるって鉄板の褒め言葉だよね

センスがずば抜けてるって直接言われても良い。

血は争えんな…みたいに意味深な感じでも良い。

こやつ、力の使い方を覚えれば化けるかもしれん…とか陰で言われるのも良い。

努力の成果が出たねとか、日々の鍛練の賜物だねって言われるより、センスを褒められる方がなぜか嬉しい(センス褒められたことなんかないからおそらくだけど)。

キレキレ秀才エリート型、コツコツ努力大器晩成型にも一定のファンはいると思いますが、やっぱり主人公になるのは血統センス天然型が多いのではないでしょうか。

最近はマンガの幅や奥行が広すぎて○○型とかセオリーとかって話自体が古臭い印象ですが、少なくとも僕が自然に触れてきたマンガやアニメはセンスに対する絶対的な憧れを意識していたと思います。

センスの持ち主に無性に憧れてしまうのは、それが初めから持っているヤツに見えるからかもしれません。

人が努力の末に得るものを初めから持ってる。努力では追いつけない壁がある。最初から二歩も三歩も先にいるのに、自分の実力が分かっていない。

それを見て秀才型や努力型は絶望したり己を見つめたりして結果それぞれの持ち味を磨いていくのでしょう。

センスあるって言われたい。あらゆる場面で。

センスも元をただせば学習の結果だ

だけどセンスって本当にそれほど不可侵なものなのかと言うと、そうでもなかったりします。

確かに環境に恵まれていたというのはあるし、絶対的な差は認めざるを得ないんだけど、結局、それだけの学習を行ってきたという話しです。

つまり、身近にお手本がいたとか、自然に訓練を積んでいたとかって言う理由が必ずある。

スポーツであれば物心つく前からボールで遊んでいたとか、ラケットを握っていたということがあるでしょう。センスが磨かれた原因としてはたまたまボールがあったりラケットがあったりしたからと言えなくもありません。

また、読み書きのセンスも小さい頃から活字に触れていたとか、親が読書家で、文字を読むという行為に抵抗が全くないとかって部分が後々大きな差になったりします。

幼い時点で当たり前のようにボールを打ち返せたり、まともな文章を書いたりすれば、もしかしたら大人からみて恐ろしいセンスの持ち主に見えるかもしれません。

確かに先天的な要素もあるでしょう。

特にスポーツだと、筋肉の質が影響したり、語学センスにしても耳の良し悪しで大きな違いがあると言いますから、そういうものに恵まれることはある。

しかしいずれにせよ、センスという一見ゆるぎなさそうに見えるものも、実は無意識レベルでの反復や、正確なお手本による見取り学習の成果という地味な練習の賜物であります。

特に、アスリートの子はアスリート、作家の子は作家、政治家の子は政治家になりやすいように、身近に質の高いお手本がいるというのは、センスを養う上で大きなアドバンテージになることでしょう。

勉強や学習のセンスを磨くチャンスはどこに?

さて前置きが長くなってしまいましたが、仮に勉強や学習というのにもセンスがあるのだとしたら、普通、そういうものを磨くチャンスはあるでしょうか、というのが今回の疑問です。

考えてみれば、僕は幼い頃、学ぶ大人を見たことがありません。学習する教師を見たことがありません。

大人も教師も、いわゆるお勉強は終わった人間であり、答えを知っている人間であると信じていた僕たちは、それらの人から勉強や学習を教わりましたが、思い返してみると答えを与えられただけのような気がします。

学習ストラテジーに関する格言として、「魚を与えればその人は一日食べることが出来る。魚の取り方を教えてあげればその人は一生食べることが出来る」というようなものがあったと思います。

老子だかの言葉らしいのですが、考えてみれば幼い頃、魚を一匹ずつ与えられていたとは言わないまでも、小さな釣堀で知れ切った魚を釣り上げることに汲々としていたような気がします。

なぜなら与えられる方法や答えに疑問を持っていなかったから。

勉強は大人になれば終わるものだと思っていたし、答えはあるのが当然だと思っていた。

釣堀の例えで言えば、生け簀の大きさは見えていたし、釣れるのは当たり前だと思っていた、という感じです。

大人は問題集を解くことはないし、教師がテストを受けることはない(少なくとも子供の前では)。

大人がワケの分からないものに直面し、顔をしかめながらそれに立ち向かう姿や、いままで解きほぐせなかった何かが不意に解けて、晴れ晴れとした顔をするところを見たことがない。

僕がそういう大人を見ることになるのはやっと大学に入ってからか、もしくはそれ以前だと、小説の中の探偵くらいです。

大学に入ってやっと、教授と呼ばれる人がぶ厚い本を参照しているところや、疑問の数々に目を輝かせているのを見ることになります。

当時は大学の先生ってやっぱり変わってるんだなと思ったけれど、同時に、こういう人たちをもっと小さいときに見ていれば、学習の楽しさに早く目覚めていたかもしれないと思いました。

答えでなく学び方を見せてくれる大人っている?

もし、学習にもセンスというものがあるのなら、問題の解き方や答えではなく、疑問や問題や謎に直面し、悩み考え、また疑問や謎が生まれという学びにおける無限の道程を見せることが、つまり、質の高いお手本であり、学びの土台となる要素なのではないかと思います。

教育に携わっている訳でもないのにエラそうなことこの上ないですが、僕はそのように愚考します。

答えも解き方も、人間に教わる必要はありません。

数式も文法も歴史もあらゆる仕組みも、疑問さえ抱くことが出来れば簡単に知ることが出来ます。

ネットだろうが文献だろうが当てにならない情報で溢れているかもしれませんが、教科書や一教師の与える答えが必ずしも正しいワケではないということも大人になってやっと分かることだったりします。

学びのセンスがもし、疑問を持ったり、物事を疑ったり、答えがない問題を考え続けたりすることだとしたら、人が教える意味というのは、そういう姿を見せることにあるのではないでしょうか。

市町村ではよく、生涯学習というテーマが掲げられることがあると思います。文化的な町、学ぶ意欲に応える町、学ぶチャンスがある町。しかし地域が掲げるそのテーマの意義とは一体なんなのでしょうか。

老後の暇つぶしでも好奇心の押し付けでもないとしたら、学びの道は生涯をかけても歩きとおすことが出来ないという事実を子供に見せることなのではないかと思います。

残酷であり必ずしも魅力的であるワケではないのかもしれませんが、もし学びにもセンスが必要で、それが主人公になるための必須条件だと言うのであれば、考えてみても良い問題だと僕は思います。

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