良い文章は単調ではありえない/セッションっぽさ

前回の、良い文章を読んだときの感覚/キッチンっぽさ

では、文章と音楽には親和性があると思うみたいなことも書いたんだけど、そこのところをもう少し直接的に書いてみようと思います。

そう言えば、映画『セッション』を見たあとの感じと良い文章を読んだ後の感覚って似てたなと思った、というのがこの記事で言いたい全てのことです。

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『セッション』ってどんな映画?

『セッション』は少し前に話題になった映画で、TSUTAYAでやたらおすすめされていたので借りて見てみました。

レビューができる程じっくり見た訳じゃないし見たのはもうけっこう前の話なので感想は省きますが、見る人が思わず息を詰めてしまうほどの緊迫感に始終支配されており、空気が張りつめているが故に空間を割くドラムの音が常に危うく、とにかく身体に力が入る映画です。

『セッション』はある名門音楽学校での話で、主人公はドラマーです。才能溢れる若きドラマーが鬼教官にビシビシ鍛えられながら成長する話、と言えばそれまでだけど、

「音楽の世界は厳しい」

「才能がモノを言う世界」

そんな理解で臨めば自分の認識の生ぬるさに気づいて自らをぶん殴りたくなるだろうし、自分をぶん殴るのはギリギリ踏みとどまったにせよこんなはずじゃなかった、こんなの見たくなかったって精神的に痛い目見る羽目になること間違いなし。

『セッション』は、「持つ者」だけが辿り着ける狂気の境地を疑似体験するための「滑走路」そのもの。

このままここにおったらアカンって分かってるのに始終叩かれるドラムの音と怒声に煽られて煽られて、平凡な僕らは危険な滑走路上では容易に立止ることもできず、かと言って飛翔することも敵わず、結局巨大な才能にザンっと轢かれて目の前真っ暗になって終わるっていう、もうズタボロの体験ができます。

なんと言うカタルシス。なんという臨死体験。傑作です。

大きな才能に怒鳴られ、引きずられる恐怖

それで本題なんですけど、良い文章を読んだときの感覚って『セッション』を見たあとのズタボロになった感覚とすごくよく似てるってことをここでは書きたいのです。

うまく説明することはできないんだけど、『セッション』は音楽を軸にした作品でありながら、まったく音楽に甘えません。

「こういう厳しい世界があるんだね」なんて悠長なこと言ってられない。音楽を描こうとなんてしていない。描いたのはあくまで「セッション」であり、共鳴し、同調し、混ざり合い、怒鳴り合い、ズタボロになっても立ちどまれない才能の怖さです。

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※原題は『Whiplash』って言って、鞭でやたらバシバシ叩く→「鞭打ち症」のことらしく、ドラマーの職業病とも言うべきもので、このタイトルが良いし重要なんだという意見も多く見受けられますが、僕は『セッション』もよく考えられたタイトルだなと思う。少なくとも本記事ではどちらでも主張に影響ありません。

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凡人は限界が来たら意思に関わらず立止ります。もしくは落下します。もしくは巨大な才能に轢かれます。

足が止まらない怖さ。引き摺られてしまう恐怖。

この感覚が才能溢れる良い文章を読んだときにも起こると僕は思います。

優れた文章を読むと目の動きを止めるのが難しくなる。息をするのを忘れる。引き摺られるように読む。

そのとき頭の中で流れるのは、やたら大きな声でもあるし、低い囁き声でもある。バックではドラムの音、笛の音、ベースみたいな音、よく分からないしときによって違うんだろうけどとにかく一定のリズムと強弱さまざまなアクセントに煽られて煽られて、最後まで読んでしまう。

そして心地よい魂の疲労が待ってて、すごいもん見たなと思わされる。

良い文章は単調ではありえない

『セッション』を見て思ったけど、というか今何となく思うのだけど、思い返してみるとあの映画ってどんな感じだったのかよく分からなくなります。

どんな感じって言うのは、ざっくりした印象としてうるさかったのか、静かだったのか、ゆるかったのかキツかったのか、面白かったのか面白くなかったのかが分からない。

多分全部なんだと思います。

静寂と喧騒はワンセットだし、弛緩と緊張は強いられるものだし、諧謔と狂気は紙一重です。

それが見る人によるってんじゃなくて、多分見た人みんな同じようにコントロールされてまるごと飲まれてしまう空気があの映画にはある。

あれは音楽の映画だけど、音楽がメインじゃないです。あくまで映画で、文芸の世界です。

つまり脚本と演技と映像と音楽の融合の世界であり、そういう「セッション」を見せられたが故に読後感に似た放心状態を味わうことができたのだと僕は思う。

そんな多次元的な構造物が単調である訳がないと思ったとき、またその複雑な構造があの映画の素晴らしさなんだと思ったとき、なんで文章を読んだときに微かにでも似た感覚を得ることができるのだろうと考えました。

文章とは、基本的に文字だけを使ってモノを表すという大きな制限があるからこそ、そういう曖昧さをもっているからこそ、人々の五感や想像に働きかけやすく、逆に全ての表現が許されるのだという仮説を立てました。読む人の能力と常にセッションするのです。

だから、良い文章は単調ではありえないと僕は思う。

良い文章は単調ではありえない/セッションっぽさ(完)

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