ブログをアウトプットの場にするのではなく、インプットを見せる場に。

水曜日は自分の町の歴史、文化史、風土と言ったものの研究をもとに小説を仕上げるまでをお見せする日です。

とは言え、正直な話、水曜日はどうすればこの学びの時間をブログのコンテンツとして共有できるのだろうかという悩む曜日でもあり、記事は手探り状態です。

できるだけ、ズブの素人が自分なりに資料に当たって、それを一つの表現にまで持っていくという過程が人の役に立つものにしたいという願望がある。僕だって経験の浅いことだから有益な情報になる保証なんてないけど、そういうスタートラインだからこそ共有できるものがあると思っているのです。

でもどうすればそうなるのかが分からない。

基本的に対象とするのは背景に昭和10年代のこの地域の様子と決めたので、僕個人の活動としてはその時代背景(戦争のこととか)などを勉強するところからはじまっています。

今はひたすら書籍や論文などを読み漁る日々ですので、自分の中では「やってる感」はあるのですが、さあこの経過をどう記録しようか。

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取材や調べものってどうやってブログコンテンツにすればいいんだ?

これとこれとこれ読みましたー、って記事じゃ全然面白くない。かと言って「この本からはこういう気づきが得られました」みたいな簡潔なメモを取ることにも意味を感じません。

そもそも乏しい知識で考察とか書評なんてことにはならないだろうし、あくまで取材なのだからアウトプットを見せるというよりは、インプットを見せるという感覚を維持したいなと。

それに本に書いてある、誰が読んでも同じことをここに書き写したところで、その本を読む以上のものにはならないですよね。幅のある読み方が許されている小説などならまだしも、知りたいことを知るためなのだとしたら、僕の記事を読むよりもその本を自分で読む方が良いに決まっています。

だからこの件に関してのブログコンテンツという話で言えば、読書して咀嚼してアウトプットという読書体験ではなく、もっと受け身な「インプット体験」を記事にするのが正解かなと今のところ感じています。

ここで言うインプット体験とは多岐に渡ります。

例えばその資料を得るまでの話、その資料をどういう風に使うか(使ったか)という話、その分厚い資料を読むときの苦痛とそれを乗り越えるために行ったことの話、メモ自体にはそれほどの価値はなくても、どんなことをメモするのかという取捨選択の話、などなど、インプットにまつわる話です。

それが多分、ズブの素人が調べものをする際に必要になってくる情報なのではないかと思うのです。とは言えやってみなきゃ分からないから憶測だし、都度何がブログに書くのに相応しいかを考える必要があると思います。

じゃあ今日はどうするか、と言えば、上の例で言えば、その資料をどういう風に使うか(使ったか)という話がメインになる。

『戦中用語集』を使う

最近読んだ資料の中で一つピックアップするとすれば、『戦中用語集』です。

戦中用語集 (岩波新書 黄版 310)

用語集と言いますがかなり薄いので気軽に読めます。

文字通りの内容だから想像している通りだと思うけれど、これは人に話を聞く際の起爆剤のようなものになります。

僕は歴史に疎くて、基本的な情報さえよく分かってません。

第二次世界大戦ってそもそもなに?太平洋戦争とかって言うときはなにが違うの?満州事変?どれがなに?みたいな状態。

いや、多分学校で習ったレベルのことであればある程度分かってると思うんだけど、いざ説明しろと言われるとできない、受け身の知識はあるけれど、それは理解してるつもりになってるだけで、ちょっと問いを持って考えてみるとそういえば分かんねえな、みたいなことが大量にある。

そんな状態で人に話を聞くことはできるだけ避けたいものです。

なぜなら、ここからは『取材学』という本の受け売りだけど、人に話を聞くときはまず「問う能力」が必要です。

取材学―探求の技法 (中公新書 (410))

その問いがすごく基本的なものだったら、つまり、ちょっと調べればわかる程度のものであったり、常識レベルのことであれば、せっかくの人の声と、話を聞くという行為(その時間)が無駄になってしまう。

はっきり言って事実が知りたいのであれば人の話より本の方が当てになりますし、人にはその人にしか答えられない問いがしたいものです。

人に話を聞くって、それこそ「やってる感」はあるけれど、準備が不十分であれば基本的な情報の確認ばかりとなって、時間が過ぎるだけで、悪手となってしまう。

だから調べれば分かることはまず調べる。そして聞かなきゃ分からないことを聞く。そしてまた深く調べ、深く聞くという風に繰り返していく。

だけど祖母は身近にいるもので、ちょっと食事の折とかに気軽に話を聞いてみてしまうものですし、「とりあえず話を聞く」という行き当たりばったりな方法も、場合によっては捨てたものではありません。

しかし、『戦中用語集』がなければ、あまり有益な会話にはならなかったのではないかなと思います。

その単語はどんな肌触りなのか。「疎開」の質感

「『戦中用語辞典』って本があったよ」と僕が言えば、祖母は「ああ、それは懐かしい言葉が載ってるかもね」と言いました。

僕は続けてこう言いました。

「そうでしょ。でもどれもこれもある程度知ってる言葉ではあるんだよな。んー例えば、疎開って言葉は言葉自体も意味も知ってるけど、ピンと来ないところはあるね」

「ああ、そうかもねえ」と祖母は答える。

祖母にとって当たり前の言葉が、時代を隔てた僕にとっては曖昧な言葉であることに、このときまで祖母は分からなかったのです(僕も、そういえば疎開という言葉の質感が分からないということに気づいていなかった)。

「ああ、語らなきゃ分からないんだ」ということ、「単語だけでは伝わらないんだ」ということを、知らない側はもちろん、知ってる側だって気づけない。

だからこそ、『戦中用語集』のようなものを片手に、○○ってなんだったの?という会話をすることは、お互いにとって思わぬ話題へと転じる可能性がある。

僕にとっても、疎開なんて言葉は教科書にも出てくるだろうし、戦争文学なんかを読んでいても頻繁に、当たり前に出てくるものですから知っています。だけど、それが当時の人たちにとってどんな質感を持っている言葉なのかは分からない。

例えば「健康診断」って言葉を聞いたときみたいにちょっと怯んでしまう言葉なのか、「食べ放題」という言葉を聞いたときみたいにワクッとする言葉なのか。

どうでしょう。分からないでしょ?

そういう風に、単語の質感を改めて眺める道具として、言葉そのもの単語そのものがまとめられている『戦中用語集』のようなものは使える。

事実は一つ、認識は無数

単語レベルの問いから、芋づる式に問いは発生します。

「疎開」という言葉を例に続けてみましょう。

質感としては、いかようにも考えられますよね。

集団疎開なんて場合だとみんなで遠足するみたいな感じで子どもはワクワクしたのかもしれないし、親と離れ離れになってめちゃくちゃ寂しかったとか不安だったのかもしれない。

その当時、その子がどれくらい戦争というものを認識していたかにもよるでしょう。

僕らは戦争を知識として知っているから、疎開が主に終戦末期にあったことなども知ってるけど、当の本人たちは「戦争がもうすぐ終わるなんて知らなかった」のです。このギャップは大きいと思いませんか。

後からみれば短い時間じゃん、友達みんなで田舎暮らし楽しそうじゃんって思うけど、当時であればもうずっと親に会えないかもしれないという危機感があったかもしれないし。もしくは子どもだったから、そんなもんだろくらいのカラッとした態度だったのかも。

祖母は疎開する側ではなかったし、北海道の中心よりさらに北というこの辺りにまでくる子というのはこちらに縁者がいる子に限られていたから、疎開という言葉に対して持つ質感はどこか他人事みたいなものだったのでしょう。

という風に、すべてのあらましを書いてたら長くなってしまうから控えるけど、思わぬ問いや仮設が発生するきっかけはあちらこちらにある。

この記事で言いたかったのは、資料もただ事実を知るために使うのではなく、事実を元に、個別な人間に、個別な問題を問う素材として使えるということ。

ブログをアウトプットの場にするのではなく、インプットを見せる場に。(完)

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