僕に限らず、昭和63年生まれは「時代の間にいる」という感覚を強く持っているのはないかと思います。
少なくとも僕は昭和の感性と平成の感性に挟まれているという感覚が強くあって、その間でいまいちどちらにも振り切れず、どっちつかずの感性を培ってしまったような気がすごくする。
それはこうして何かを発信したり、表現したりするときには不利に働くこともあるのではないか。
ここのところ、「この時代に映える鮮やかな表現ってなんだろう?(僕の場合は文章において)」って考えてるんだけど、時代を語るなら昭和と平成の感性の違いについて、その狭間にいる立場だからこそ見えそうなことを書いておいても良いのではないかと思いました。
一言で言えば、「昭和の感性は生成り、平成の感性は編集」という言葉に収まるんじゃないか。
この違いが、着目する部分や表現上のこだわりに現れてくるのではないか。
そんな話しをします。
昭和63年が時代の間のスポンジ
表現の話の前に、昭和63年生まれがいかに時代に挟まれてるかって話をしたい。
親が完全に昭和だから精神的には昭和なんだけど、自分の目で見てきた世界はほぼ完全に平成という、価値観の板挟みとも言える年に生まれたのが昭和63年生まれ、88年世代(厳密には昭和64年生まれもいるけど同学年ということで世代としてまとめさせてください)。
昭和の親に育てられ、平成を見てきたという条件で言えば63年生まれに限ったことではないのは承知ですが、それでも多分僕らの世代は時代の緩衝材としての役割を自認している人が多いのではないかと思うのです。
でもこの板挟み感を損に感じることがあって、僕ら世代は何となく昭和・平成どちらから見ても「大人しい・つまらない」という印象を持たれているのではないかと思う。
昭和からすれば、「イマイチ煮え切らない。もっともっとがむしゃらに頑張れよ」って言いたくなるし、平成からすれば「イマイチ思い切りが足んない。振り切ってくださいよ」みたいな印象になってるんじゃないか。
でもほら、昭和と平成って言葉をがちっと組み合わせると「平和」になるわけで…だから、あまり我を張るのは得意じゃなくてってこれはただの言葉遊びであって、こうやって「へへへ…」といなすのがお家芸ならぬ世代芸なんだけど、こういうところがまさに脅威にならない所以で、両者の言い分が分かるだけにうぬぬ…ってなる。
なぜなら、このどっちつかなさは表現にも少なからず曇りを与えると思うから。
昭和は生成り、平成は編集が世界観の根底に
昭和と平成にわりとかっちりとした価値観の変化があるとしたら、その境目を自認する一人である僕なんかから見ると、「昭和は生成り、平成は編集が基本にある」と感じる。
編集の意識が根底にあるか、ないかの違いは、簡単に言うと、感覚が現実をはみ出すことができるかどうかの違いだと思う。
編集の意識が根底になければ、あらゆる表現は淡々とした、現実をはみ出すことのないものとなります。
一方編集の意識が根底にあれば、あらゆる景色は簡単に現実をはみ出て、本物より鮮やかにしたり、本物よりキレイにしたりすることができる。
淡々とした表現は、悪く言えばのっぺりと掴みどころがなく、あまりキャッチーとは言えないけれど、現実をはみ出さないという安心感があります。現実的な時間の流れには信頼感もあります。淡々と、コツコツの精神が、表現にゆったりとした雰囲気を与える。
一方編集されつくした劇的な表現からは、鮮烈な驚きを体感することができます。ここだけ大きく見える、ここだけ明るく見える、ここだけ光って見える。
そういったパーソナルな感覚を、そのまま人に伝えることができる編集の意識は、他者に世界観を訴える鮮やかさがあります。
どちらが良いというのではなく、これらの価値観は混ざるべきで、この価値観がうまく混ざったものが現代で映える表現なのかなと思う。
淡々とした現実的な現実の中に、編集された鮮やかさを加える
ただ淡々と淡々と、現実を越えないものだけを見ていても飽きてしまうけど、鮮烈なだけのものを見ていても意味が分からないで終わってしまいそう。
だからこそ、淡々とした、現実を越えない安定した基調の中に、鮮やかで少し現実をはみ出した表現があると、安心感と驚きのある、結果的に鮮やかさが映える表現になるのではないか。
昭和の淡々とした世界観も素敵だし、平成の鮮やかな世界観も素敵です。
これはどちらが良いというのではなく、ゆるやかに混ざるべきなんだと思う。
さて、具体例も何もなしにここまで思いつきで書きました。
表現について、もっと説得力のある発見ができそうな気がするんだけど、今のところこのように手探り状態です。
さらにしつこく、現代で映える表現について考える必要がありそうです。
昭和と平成の感性の隔たりはなんだろう/淡々と、鮮やかなものを探そうよ(完)
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