SNSで戦闘力5のおじさん以下だと気付いた僕の本当の不幸

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ドラゴンボールのスカウターって憧れだったですね。

戦闘力が可視化されるって興奮だった。分かりやすく力の差が実感できる。スカウターは発明ですよね。

でもスカウターに憧れられたのって、「自分の戦闘力はそれなりに高いに違いない」って闇雲に思えてたからなのかなと思うのです。

そりゃ全盛期の悟空とかベジータとか各ボスみたいなけた違いだとは思ってないにしても、「自分はザコではないだろう」「自分は脇役ではないだろう」という根拠のない自信があったからこそスカウターに憧れられたと思うのです。

きっとスカウターがこの世にあったら、自分はそれなりに一目置かれるレベルの人間に違いないとナチュラルに考えられていたからこそ、スカウターをつけて互いの戦闘力を測るみたいなことをしてみたいと思えた。

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戦闘力5のおじさんと身の程をしる歳

ドラゴンボールでは「戦闘力5のおじさん」が有名ですよね。

「戦闘力たったの5か、ゴミめ」ってラディッツという人に言われちゃうおじさん。

僕らもあのおじさんはザコだという認識で生きているわけですが、人をザコと思えるのは自分のザコさを知らないからで、いつだったか、高校生くらいのときに「でも俺たちの戦闘力って絶対にあのおじさん以下だよな」って話しをした気がします。

誰かがそう話してるのを聞いただけかも。

今思えば、この頃くらいから自分の身の程を知るようになっていたのかもしれない。悪い意味で謙虚になったというか。

SNSで可視化される社会的な戦闘力とは

スカウターのように、戦闘力を可視化するという機能を果たしているのがSNSだと思います。

フォロワーが何人いるかでその人の社会的な戦闘力が測り合えるようになった。

それは信用力、影響力、発言力、魅力、人間力と言った僕らが今まで積極的に曖昧にしていたものだった。

状況や、どんな人に対するかによっても本当は揺れ動く評価だけど、数値化することではっきりと、人間の上下が分かるようになった。

もちろん、これはSNSの一側面にしか過ぎない認識です。誰もがフォロワーが少ない=ザコと考えるわけではないし、僕だって誰かをそんな風に見ているわけではない(つもり)です。

SNSの数字で戦えるようになった今、幸せなのか

でも最近自分には思う。

積極的に発信をしていても大きな影響力を持てない僕と引き比べ、平気で大きな数字を背負っている人を見ると、「ああ、自分はたった戦闘力5のザコおじさん」なんだな、と。

もちろんそんな風に身の程を知ってしまうのは幸せではなく、ましてやSNSで分かるのは腕っぷしの強さではなく、社会的な戦闘力。即ち信用力、影響力、発言力、魅力、そして人間力という、もっと自分の核に寄り添った部分。

それは錯覚かもしれない。SNSでなど本当は何も測れないかもしれない。

だけどたまに戦闘力たった5のザコおじさんをザコだと笑えてた頃のような、ナチュラルに根拠のない自信を持った自分が懐かしく思う。

SNSなんてなければ良いのに、と思うことがある。

数値化は理屈を上回る前フリ

ここまで考えて、しかし少年漫画において「強さを数値化する」という発明がなぜ面白いのかというと、「理論上勝てないはずの相手に勝てる」という状況が伝わるからだ、と思いました。

数値的に適うはずの無いキャラに挑まなきゃならないスリル、土壇場で覚醒し、強敵の数値を上回る興奮、数値上勝てないはずなのに攻撃が届く奇跡。

スカウターをはじめとする強さを示すアイテムが本当に発明したのは、「理屈を超えるパワーの発揮」という現象。

そう考えれば、やはりSNSの数字もただの数字に過ぎず、理屈を上回る前フリに過ぎない。

ああそうか、僕はいつの間にか、「自分ごとき」の発信をしてしまっていたな、と思いました。

他でもない自分が自分の数字を見つめて、自分をザコ認定して、ザコらしく振る舞うようになってたかもしれない。

本当の不幸はそういうことなんだよな。数字に惑わされず、根拠のない自信を持てよ、と自分に言い聞かせる真夜中です。

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