疾走感のある文章を書きたい/人を走らせる文章について

「疾走感のある文章」という言葉を聞くことはあるけれど、この疾走感って文章の一体どこから生じるものなのでしょうか。

早口を演出すること、テンポよくコロコロと単語を置くこと、句読点の使い方で読むスピードを操作すること、それで文章に疾走感は生まれるのでしょうか。

疾走感のある文章は読み心地が良いですから、僕もそういうの書きたいと思って色々試してみるのですが、上に書いたようなことをしてもなんだか小手先だけの気がして、本当に疾走感のある文章を読んだときのランナーズハイみたいな読後感を出すのは容易ではありません。

ただコロコロと小気味良い文章、流暢で滑舌が良い文章ではなく、人を走らせる文章を書きたい。息が切れていることも気づかないような、足が疲れているのにも気づかないような、気づいたとしても走り続けなければ気が済まないような。

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疾走感のある文章のエッセンスはなんだ

疾走感のある文章を書きたい。だから勉強しようと思いました。

疾走感のある文章ってなんなのか。

疾走感のある文章と聞いて思い浮かぶのは、安易かもしれませんが重松清著『疾走』です。

疾走

帯に「重松清、畢生の1100枚!」って書いてあるからけっこうな分量なのですが、まさにダッシュマラソンをするがごとく、あっという間に、駆け抜けるように読み終えてしまった本です。

そういうあっという間に読み終わる本は他にもあるけれど、『疾走』というタイトルを冠して、「疾走」という言葉が物語内で機能しながら、疾走体験を読者にさせてしまう著者の筆力に恐怖を覚えました。

だって『疾走』ってタイトルの本読んで、まさか走らされることになるのが自分だなんて思わないでしょう。主人公と一緒に走る走る。いやちょっと違う。主人公を追って走る。お前どこ行くんだよどこ行っちゃうんだよそっち行っちゃダメだろ!ちょっと休もうよいいから止まれって危ないよおい!馬鹿ちょっと待てって!って必死に遠ざかって行く背中を見つめながら、叫びながら、でも止まるワケにはいかない緊迫した読書。これは良いですよね。楽しい。

嫌な予感を感じた僕らは目の前にニンジンをぶら下げられた馬のように走ることになる

現実に走ることを考えれば、最初からダッシュなんてことはしませんよね。

普通は走るとなればちょっとストレッチでもして、かるーく歩いてるか走ってるか分からないくらいのペースで走り始めて、身体が温まるに従ってスピードを上げていくものだと思います。

でも走らされる文章には「走らされる」のですから、お行儀よく体を温めている時間なんてありません。準備も覚悟もろくにできないままに、いつの間にか走らされてる。

まるで目の前にニンジンをぶらさげられた馬のように、僕らはいつからともなく走り出す羽目になる。

強制ではない、でも走らなければ気が済まなくなる。

『疾走』において、最終的に読者は「疾走」させられるわけですが、じゃあ僕らが走り出すのは一体いつ、どこからなんでしょうか。疾走感のある文章を読む僕らにとっての「ニンジン」は一体なんなのでしょう。

その正体は「嫌な予感」なのではないか、と『疾走』を読んでるとき思いました。この記事はただそれを言いたいだけの記事。

僕らは不安に突き動かされてというより不安に引っ張られて行動することがある。期待という感情と区別するのは難しいけど、不安は期待よりずっと強い原動力になり得ると思います。

一番初めから嫌な予感がする文章

じゃあ『疾走』において「嫌な予感」がさせられるのは、具体的にいつなのか。

「嫌な予感」を生じさせる箇所は随所にあるのですが、驚いたことに『疾走』では、最初のページからさっそく「嫌な予感」がする。

最初のページからニンジンの匂いを嗅がされる。え?と思うその時点で、たどたどしくも僕らは走り出さずにはいられなくなる。そうしているうちにニンジンの輪郭が見えてくる。ああやっぱりそうじゃないか、やっぱりニンジンがあるじゃないか。そしていつの間にか全力で追っている。

「嫌な予感」はご褒美か?そうかもしれない。嫌な予感がすると僕らは早く結末が見たくなる。嫌な予感は「嫌」なんだけど、その予感がぴったり当たることを望んでもいる。嫌なことも知らずにはいられない。せめて「認識」して持ち運べるサイズに畳んでしまいたい気持ちがある。「病名」を知りたいのと同じ原理。見えているのにたどり着けないのがとてつもなく嫌。そういう期待と不安に駆られて僕らは走らされる。

もったいぶってる感じになっちゃってるからその最初のページ、冒頭を引用してしまいます。「疾走感のある文章」がこの記事で考えたいことなので、小説自体の内容やテーマには触れませんが、ネタバレがあります。できれば先に作品を読んで欲しい。

嫌な予感はここから始まります。

小高い丘にのぼると、ふるさとが一望できた。

緑がまなざしからあふれ出る。水田だ。きちんと長方形に区分けされた升目が、無数に広がっている。平らな土地。水田の先は海。陸と海を、コンクリートの堤防が隔てる。

「昔は」

シュウイチが言った。ここだここ、と水田地帯に顎をしゃくる。

「俺たちの生まれるずっと前、ここはぜんぶ海だったんだ」

おまえは半信半疑の顔で、ふるさとを眺める。

太線は筆者による。

語っているのが誰だ?

やばい。

だってはじめは普通に、特に深く考えなければ三人称小説だと思いますよね。

でも急に「おまえは」と言われたらドキッとする。ここでドキッとしたら作者の思うツボなんだと思います。

え?って思う。二人称小説?じゃあ誰が語ってるの?この場におまえとシュウイチ以外の誰かがいるということ?

そう思ったときのゾワゾワ感に絡めとられる。この時点で不気味な語り手の存在(もしくは非存在)を思い、少し歩く速度を速めてしまう。語り手は誰で、どこにいる?

そのまま少し先を読み進めると

シュウイチはおまえの四つ年上で、おまえはまだ小学校に入ったばかりだった

物知りな兄だった。おまえはシュウイチのことが大好きだった。

また、え?って思う。こんなのルール違反、じゃないの?

二人称小説なのであれば、語れることに限度があるはず。でもこの語り手は知り過ぎ。

「おまえはシュウイチのことが大好きだった」はちょっとやり過ぎというか小説の文章としてはルール違反ではないでしょうか。

「A子は泣いていた」と書くのは良いけれど、「A子は悲しかった」と書くのはダメ。感情に踏み込むと客観的な事実じゃなくなるから。それが許されているのは、いわゆる「神の視点」で書く、三人称の文体のときだけじゃないか?

「大好きだった」は、第三者が「この子はおばあちゃんが本当に大好きでね」みたいに言うこともあるしギリギリセーフとも思えなくはないけど、語り手が存在がまだはっきりしないので、つまり信用しきれないので、やっぱりそこまで感情に踏み込んで断定されるのには違和感がある。

視点とか人称の話はややこしくなって僕がやたら混乱するし記事の本題と違うからしたくないけど、「おまえはシュウイチのことが大好きだった」という文章に、第一印象として違和感があることは間違いないと思う。

理屈は置いといて、パッと読んだ印象で、「だから誰なんだよお前」っていう気持ちになる。

執拗に「おまえ」「おまえ」と繰り返すその語り手の声が恐ろしく感じてきて、何とも言えない「嫌な予感」を抱かせる。「だから、誰なんだよお前」って感情を抱えながら、僕らはだんだん速度を上げることになる。

神のふりをした人間

「おまえはシュウイチのことが大好きだった」という文章が成り立つ状況は限られています。

おまえと言うからには、語り手が生身の人間である可能性が高い。神がおまえと呼びかけているとも考えられなくはないけど、少なくとも「おまえ」と同じ地平にいる存在(物語内の登場人物)であることは確か。

でも「大好きだった」と言うからには、やっぱり神でなくてはなりません。というより「神の視点(なんでも知ってておかしくない視点)」を持っていなければならない。少なくとも小説では。

この条件が成り立つ人は限られていて、ネタバレというか、言わないとしょうがないので言ってしまうと語り手は、ここでは神のフリをした人間とでも言えば良いのでしょうか、「神父」です。

神父は作中人物として出てきますので、その時点で、「ああ、この人が語ってたのか」と気づいたら、また一層「嫌な予感」が募っていく。

僕らが『疾走』し始めるタイミングは、この神父が語り手だと気づいたときだと思う。それがはっきり明かされるのはずっと後(てか最後)だから個人差はあるけれど、神父が初めて出てきたときにそうと気づくためのヒントは、冒頭から用意されているのです。

違和感を持って読み進めれば、お前だったのか!と気づく。

じゃあなんでこの人が「おまえ」の話を語る必要があるの?

主人公らしい「おまえ」は今一体どこにいるの?

最初の最初からとぼとぼと走り始める羽目に陥った僕らは、物語自体の不穏な空気、残酷な展開を知るにつけ、嫌な予感の輪郭を掴み始めだんだん加速し、嫌な予感が嫌だという確信に変わり、神父が語り手であるという必然性に納得する頃にはダッシュしてる。

完全に主人公の最期に向かって「疾走」させられてる。

『あなたに似た人』は疾走感のある小説?

内容には触れないのであまりピンと来なかったかもしれませんが、「嫌な予感」が疾走感のある文章を作るのではないかということを考えてみました。

先の展開が読めない話も魅力的ですが、「嫌な予感」を伴って、先がどんどん読めてしまう話も魅力的。少し先の展開の影を追って、つい走ってしまうのですからなかなか止まれません。

こんなこと考えたからと言って「疾走感のある文章」が書けるようになるとは思えませんが、アタマに入れておいても良いかなと思いました。

ちなみにその理屈で言えば、ロナルド・ダールの『あなたに似た人』という短編集も独特の疾走感を持つお話しだなと思います。

文庫本の裏に載ってる、最初の話のあらすじはこう

その夜、ある家の晩餐の席で一つの賭けがなされた。美食家を自認する客の一人が、食卓に出た珍しい葡萄酒の銘柄を判定できると言いだしたのだ。掛け金はなんと邸宅と当主の令嬢――絶大な自信を持つ当主はその賭けに同意したが…

『疾走』ほど重い話はないし、小説ってそもそも先が気になるものだろ?と思う方もいるかもしれませんが、『あなたに似た人』はタイトル通り、なんか身に染みて嫌な予感がするんですよね。ほら「賭け」みたいな、身近な止せばいい事。

「いやー止めといた方が良いんじゃないの?」

「絶対ろくなことにならないよ」

「やめとけやめとけ」

そんな風に言いたくなることってけっこう日常でありますよね。

嫌な予感しかしない前フリと、あーあ言わんこっちゃないっていう結末がサクサクと読めて面白い小説です。『疾走』みたいに読後息が切れて気付いたらしんどいみたいなことはないけど、軽いジョギングみたいな文章を楽しむにはすごく良い。

あなたに似た人 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 22-1))

疾走感のある文章を書きたい/人を走らせる文章について(完)

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