散文の精神とは/どんなことがあってもめげずに生き抜く精神

散文の精神とは

どんなことがあってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き抜く精神だと思います。広津和郎 「散文精神について(講演メモ)」 筑摩書房『文学論』p122より 

これを読んですぐに納得はできなかった、というかありていにいって「どうしてそうなるの?」と思ったので、現代において散文精神がどうしてこのように要約され、認識されるに至ったかを追いたいと思います。

散文という言葉と散文精神という言葉は僕にとってはあまりにかけ離れているように感じます。散文という言葉のどこを掘り返せば「どんなことがあってもめげずに(中略)生き抜く精神」になるのか。そのへんの理解をしたい。

散文の初歩・散文の基礎とは何か

という記事を書きましたが、この最後に言わばしりとりのような感覚で「散文の精神」について触れたのだけど、これはちょっとおろそかにできないなと思いました。

広津和郎が言う散文精神というのは、見てすぐに意味を理解するのは難しくとも、現代の僕らには必要なことと思うからです。

また、こうして切り抜くと「散文精神」とは広津和郎が言いだしたことのように見えるかもしれませんが、「散文精神」とはかつての若い文人(『人民文庫』の人達は近頃散文精神という事をしきりにいいます。と「散文精神について(講演メモ)」にも書いてある)が掲げたモティーフであるようです。

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なぜ広津和郎が散文精神についての講演をしたのか

では広津和郎が散文精神についての講演をしたのはどうしてかというと、やはり講演メモに書いてあることには、「その散文精神が何を意味するかは私は詳かにしません」と断ったあとで

併し「散文精神」という言葉には私も多少の責任を感じます。それは「散文精神」という言葉は使いませんでしたが、「散文芸術」というものについて、私は比較的早く物をいったからであります。

とのことです。

なるほどそういうこと。

じゃあ「散文芸術」とは何かって話になります。

散文芸術とは、人生のすぐ隣にある芸術

散文芸術とは何か。

広津和郎は、散文芸術(小説のことと思って差し支えない)は、詩や歌や美術と言った他の芸術よりもっと人生に近い分野の芸術だと言っています。

「散文芸術の位置」という小論において

結局、一口に云えば、沢山の芸術の種類の中で、散文芸術は、直ぐ人生の隣にいるものである。右隣りには、詩、美術、音楽というように、いろいろの芸術が並んでいるが、左隣は直ぐ人生である 筑摩書房『文学論』p101

と語っています。

しかし当然、このような小論にも反駁などはあるもので、「んーでも何をもって散文芸術が人生に近いって言うの?」とか、「いやそもそも芸術ってなによ」みたいな論争が展開されています。

どこが始まりなのかは分からないけれど、文学の世界でもこのような論争を経てその時代その時代の価値が作られて、アップデートされていく。面白いですね。

さてこの散文芸術というものに関しても疑問はいくつかあるけれど、割愛します。

僕はこの記事で、なぜに広津和郎が言うところの「散文精神」ってものが「どんなことがあってもめげずに(中略)生き抜く精神のこと」という風になったのか、そのあたりを納得したいので、最低限にしていきたい。

それでも広津和郎の考える散文芸術について、もう少しだけ深堀は必要でしょう。

広津和郎は、「再び散文芸術の位置について‐生田長江氏に答う‐」という小論で、諸々の反駁についてもう少し具体的に答えています。

一口に云うと、純粋な美、それは音楽からも絵画からも、詩からも抽出し得る所謂第一義的な芸術美以外に、第二義的な芸術美がある。我々が日常見ている生活に近い美、純粋な第一義的な美に対して、これを何と説明したらいいか。

生田氏は芸術意識と道徳意識とを分けていられたが、それのまざり合った美、広い意味で道徳意識と云ってもいいが、それでは誤解される恐れがあるから、もっともろもろの人生的要素とまざり合った美、岸田劉生氏の画論の中に「卑近美」という言葉が使ってあったが、自分も今その言葉を借用しよう。筑摩書房 『文学論』p103‐p104

卑近美

卑近美というのは言い得て妙というか、なるほど、そういう言葉があるのかと思いましたが、確かに、芸術というちょっと襟を正して相対しなければならないかのようなものに対して、日常の隣にある美的な何かというのは存在するように思う。

ただ、やはり少しこなれた言い方に変わっただけで、その本質というか、美というものに対して、そして美の表し方についての疑問はまだ残ります。

もっとも、この「美」たるものは何か、そしてその美を表す方法ということに答えが出たとしたらそれは錯覚か流行で、捉えられないからこそ万人の精神から立ち上がり得る概念なんだろう。

陽炎や虹のようなもので、誰の意識の中にもはっきりあるのに、しかし捉えどころがないというところにきっと本質がある。それは光の屈折や温度の移り変わりのように流転する自然美であり、そもそも固定を求めていない、というのは僕の個人的な意見。

このようにして「美」とは何かという問いから要領良く逃れるのもいい加減にしたいけれど、とりあえずここではそんなところで納得したい。

人生のすぐ隣にある美を表す散文

何となく、広津和郎の言わんとしている「散文芸術」は何かということは分かりました。

卑近美と言えばもっともこなれているような気がする。

その卑近美を表すものとして散文芸術はあり、それは詩でも歌でもなくいわゆる小説を指す。

散文芸術たる小説は、人生のすぐ隣になる。

谷崎潤一郎の文章読本でも

文章を以て現す藝術は小説でありますが、しかし藝術と云うものは生活を離れて存在するものではなく、或る意味では何よりも生活と密接な関係があるのでありますから、小説に使う文章こそ最も実際に即したものでなければなりません

と書かれています。

現実の近くにある文章。散文芸術とは小説で、小説とは現実や人生に近くて、それでいて美を追求するものとまとめられそうです。

散文精神とは

では現実は、そして人生は美しいものなのか。

僕はそうは思わないです。

人生は簡単につまらなくなるし、嫌なことも醜いこともたくさんある。

美とは程遠いと行っても良いかもしれない。幻想の世界や架空の世界に逃げ込みたくなるほどです。往々にしてそういう作り物の方が美しいし楽しいです。

だからと言って現実や人生はクソか?見るべきものがない、くだらない、醜いものの連続か?と問われればそれも違う。

様相が流れていつも何とも言いようがない。自分次第とも言えるし、だからと言って自分が清ければ世界が美しいのかというのも違う。

現実や人生ではあらゆることが起きて、あらゆることがままならず、かと思えばあらゆる場所に不意に現れる救いや希望があったりして、捉えどころがない。

そんな捉えどころのない、言う場れば形式も型もない現実を表し、捉えるのに適したのが散文だとするならば、

どんなことがあってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き抜く精神

を以て散文精神とするのも納得できる。

と思ったけれど、どうだろうか。

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