気軽な気持ちで起業してしまうのはどれくらい間違っているのか

まちづくりを考える

起業したけれど、僕には大物になりたいとか大金持ちになりたいとかいう欲があまりないので(正確にはそのために多大な努力をする度胸や情熱が乏しいだけで、人々に尊敬されたいとか、お金持ちになりたいという欲求は普通にある)、あまり気負いのようなものがない。

一国一城の主であるプライドや、成功しなければと自らに誓う心意気がない。頑張ってと言われても、「あの、まず何を頑張れば…具体的に」みたいなバイトの新人状態になる。

正直、自分が会社の経営に向いているとは思えません。

だって失敗しても多分傷つかないし、恥ずかしいとも思わないから。

見ようによっては正しいスタンスなのかもしれません。それくらい肩の力が抜けていた方がかえって良いのかもしれない。

でもこの感じどこか間違ってるとは思う。

気軽な気持ちで、「まあ失敗したら失敗したで良いや」という勢いで起業するのは、どこかに違和感がある。

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失敗は痛手にならない。どころか失敗はおいしい

少なくとも今、この時代においては、「とにかくやってみよう」「成功者は失敗しないのではなく、成功するまでやっているのだ」「完全や完璧を目指すといつまでも一歩目が踏み出せず、時間が無駄に過ぎていく」みたいな、チャレンジのときに唱える前向き合言葉がたくさんあって、失敗を恐れない風潮みたいのがあるようです。

学生で起業する人も多いみたいだし、自分の手に収まるサイズの小さなビジネスをしている人も増えているようす。起業はもうコスト的にも印象的にもだいぶカジュアルで、必ずしも一部の情熱的な人間が一命を賭してやること(イメージで言ってる)ではなくなった。

深い考えも大きな展望もこれだけはという覚悟もないけど、起業したいと思ったならすれば良くて、結果どうなろうと、チャレンジしたという点で褒められるべきだし、結果的に得られたもの、気づけたこと、もしくは満足があれば良い。

だからそもそも成功か失敗かの二元論で語られる領域でもなくなってきた。

あと、特にブログとかやってるからだと思うけど、ブログで稼いでいる人は失敗がけっこうダイレクトに資産になります。

なんだかんだ失敗は成功の母だし、多くの人が失敗するのだから、失敗という情報は人々の資料になる。参考にするつもりがない人にとっても、人の失敗は興味深い。

失敗の周辺にはいろいろな読者がいる。

まさに失敗に直面し、そのときどうすれば良いのかを考えている人。

ほら見ろ半端な考えじゃうまくいかないんだって、バカなことしたら損するんだってという自説を展開するための種にする人。

「失敗したバカ」を見て面白いと感じる人。

つまりほとんど人類全員が「失敗」の読者になる。

一部の、経済に結び付いているタイプのブログでは、失敗という恥をさらすことで得られるものもあって、何か失敗をしても、むしろそれが大ききれば大きいほど、ネタとしての質が高いので良いのかもしれません。

これまで、失敗はひっそりと自分の底の方で人間的な胆力とか器量のでかさみたいな見えざる資産を形成するものだったかもしれないけど、失敗に情報的価値を与えることでもっと手近な資産形成に役立つようになった。

だから失敗はおいしい。

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失敗が社会的に役立つから、失敗できなくなった

僕の葛藤とこの記事のテーマはこの辺りにあります。

失敗が「大したこと」じゃなくなったこと、それどころかやり方によっては失敗が「おいしいもの」になりつつあること。

これは歓迎されるべきことなのか、それとも警戒すべきことなのか。

僕が大した心意気も覚悟もないのに起業をしてしまったことは歓迎するべきことなのか、警戒すべきことなのか。

まず整理しておかなければならないのは、「失敗が大したことじゃなくなった」とか、「失敗がおいしいものになりつつある」というのはどの場合でもそうだと言ってるわけではないということ。むしろとても狭い領域でしか、これは成り立たないのではないかということ。

本当の意味で失敗するって難しくて、「できる!と信じられたことがうまくいかないから失敗する」のであって、「できない可能性を十分に考慮した上で(ダメ元で)できなかったことはただの確認作業」だと思うのです。

とても好きになったあの子に告白してダメだったら失敗だけど、今日一日遊ぶ相手を探してそこ行く女性に声をかけて断れても失敗じゃない。

どちらも表面的には失敗なんだけど、いわゆる「糧」になる失敗というのは徹底的に失敗を嫌った状態でなければできないんじゃないか。ダメ元の失敗は参考になる、ネタになる。でも心から傷つくことができないという点で「失敗」にはなり得ない。

その上で、今は起業とか、過度に一般化するのはダメかもだけど結婚とか移住とか、そういう一大決心のハードルが下がって、仮にうまくいかなかったとしても確認作業っぽくなってしまったから、本質的に「失敗できなくなった」というのが正しいのではないか。

だから、「やった時点で勝ち」「とにかくやってみよう」「手数をこなす」みたいな胡散臭い、表面的な成功のための言説がまかり通るようになったんじゃないか。

本気です真剣ですと言っておきながら失敗する様式美を守らないのはダメじゃないか?

以上のようなことを考えた上で、気軽な気持ちで起業することは間違ってないか?という僕の疑問について考えてみたい。

まず印象として、大好きな人に告白して振られて落ち込む人と、適当な人に声をかけて降られてヘラヘラしている人とでは、前者の方が印象的には「良い」と思う。

「起業したけど、まあ別に失敗してもいいし」とか言ってるのは、フラれてヘラヘラしてる側のヤツであって、どことなく印象が悪い。

それでも社会って不気味で、結果的に、客観的に見て「成功」と言われるようになる確率が高いのは、振られてヘラヘラしてるヤツだったりする。

多くの女性と付き合えたり、比べた上で「この人だ」という人に出会えたりと良い思いができるのは多分後者のヘラヘラした側の人間、失敗を失敗だと思わない人間の方。すぐに次に行ける人間の方。

一方、大好きな人に振られた方は実らなかった恋を引き摺って、自分に自信もなくなって、その後別の女性とも付き合う踏ん切りがつかず、世間的に見たら恵まれていないように見えるかもしれない。

複雑ですよね。心情的には好きな人に振られて立ち直れない程落ち込む人、つまり「それに対して真剣な人」を応援したいけど、社会的に肯定されたり結果的に「勝ち組」になるのは心が強かで厚かましい方で、だからこそ僕らは「前向きな思考」をインストールしたと思う。

失敗は糧に、成長に、バネに。それができるのが社会で生き抜く上で優秀な人間の条件で、ちょっとのことで本気で傷ついて立ち直れない人は弱々しい人間として頼りなく扱われたりする。

これは恋の話を比喩にしたからまだ分からないけど、例えば仕事上の失敗において、本気で落ち込んだりなんだりする人ってあまり歓迎されないですよね。

僕けっこう色んなバイトしたけど、「何か言われても『うるせーばかやろー』くらいに思う人の方がこの仕事向いてるよ」とか「落ち込んでたらこの仕事できないよ」って先輩に教わる率の高さがすごかった。

野球してる頃もそうだった。ミスのあとの「切り替え」が大事だった。

失敗を真に受ける人は「使えない」のです。でも失敗で傷つかない人は「印象悪い」んです。

そんなこんなで僕思ったんだけど、人って他人には「失敗しても良いやって気持ちでやってほしくない」けど「失敗したら早く切り替えてほしい」っていうわがままな、人をロボットみたいに扱う気持ちがあると思う。

人が人を「使える」と判断するのは、「真剣に、全力で、誠実に挑戦する人(第一要件)」で「万が一失敗したらそれをバネに成長する人(第二要件)」。育てがいがあるってやつ。

だから僕が「起業したけど失敗しても別に良いし」とか言うのは色んな意味で間違ってると言える。第一要件を満たしていないので、人は僕に「期待」できない。

ああこの辺が僕の違和感なのだ。「僕起業したけど別に失敗しても良いと思ってるんですよねー」って言っちゃう自分に対する違和感はここで、なぜわざわざ人々の期待をあらかじめ斥けるようなことをするのか、というところで「間違ってないか?」と思ってるんだ。

メンタルが強いからでも失敗から学べるからでもなく、遊びだから傷つかない

違和感のポイントが分かれば、それに答えれば良いだけなので簡単です。

僕が間違ってるかもしれないなと考えているのは、「気軽な気持ちで起業すること」ではなく、「失敗しても俺、傷つかないよ」って宣言してしまっていること。それって何の得もないよってところ。

言わばダチョウ倶楽部の竜ちゃんが熱湯風呂を前にして、「おい!まあ押しても実際そんな熱くないから押しても良いぞ!」って言ってるようなもんですよね。

建前的には、「絶対おれ社会貢献するからさ、すげえ会社にするから、みんな応援してくれよ」って言っておいて「全然ダメでした!でも支えてくれた人とか、応援してくれた人とか、本気で叱ってくれた人の恩に報いたいので、もっと別な、自分なりのやり方で夢かなえたいと思います」みたいな記事を書くことが大事だと思う。

失敗を糧に成長すべきだと思う。

でもそういう社会との手続き的なことをしれっとこなすのは難しい。その時点で強いメンタルがいる。

僕はこの件で失敗しても傷つかない、だから失敗をバネに成長したりもしない。

言うなれば起業はそこまでのことじゃなくて、「遊び」に近い。実際、今の段階で「どうしてこれで仕事になってるの?」「遊んでるだけじゃねえか」みたいに見える仕事ってけっこうあると思う。

ユーチューバーとかがそう?ブロガーもそうかも。こうして挙げだしたら本当に本当の無きゃ困る仕事って農業とか医療とかしか残らないかも。

遊びじゃんって言われても、いえいえこういう風に社会の役に立ってて、その対価としてこれだけ頂いてる立派な仕事なんですよ(大金バーン)、みたいな仕事ってたくさんあるようです。ゆっても社会的にはそう言わなきゃ示しがつかないってだけでかなり遊びだと思うし。

そういうのって正確には遊び(に見えること)が仕事になるんじゃなくて、仕事が遊びめいてきた(けど真剣にやるし「仕事」って言い張らないといけない)ってことですよね。

そう考えるとね、例えば海で、「私はこれから砂のお城を作ろうと思います」っていうだけのことを、「おれ絶対やり遂げるんで!真剣なんで!応援してください!」って言うのも変じゃないですか。

風の影響も、潮の高さもまだまだ未知数のところはありますが、小さい頃から公園の砂場で遊んだ経験、じいさんの盆栽いじりを手伝ったときに土のうんちくを聞いた経験などがあって、長年親しんだ分野ではありますし、ずっとやりたいと思っていたことでもあります、城が完成させることで一人でも多くの人に幸せを届けたい。それができる自信はかなりあります!よろしくお願いします!って言うのは面白い感じになっちゃいます。

いやそりゃ分野とかやることによるけど、僕の場合は海で砂のお城作るくらいのことをやるので、「失敗してもおれ大丈夫よ」って言ってるだけです。起業って、お城を作るにあたって、旗を立てて目印を立てる程度のことです。

起業と言えば、さぞ高い志を持っているかのように見えるかもしれないし、会社を持つというだけで否応なく社会的な貢献を期待されると思うけど、僕が斥けたのはここのところで、「社会的な成功」を「会社の成功」とする社会的な目です。

さらに加えるならば、社会的な成功と人生の成功を切り離して見られないかもしれない誰かの目です。

起業は目的ではなく手段

は、何言ってんのって感じかもしれないけど、多分そんなところが僕の真意だと思います(こういう言い方なのは書きながら考えてるからです)。

海で城の砂作ろうと思って、それが失敗しても別に失敗だとも思わない。思わないでしょう。ビーチバレーしようと思ったけどボールすぐ絞んじゃったりしたら笑うだけでしょう。うわダメだでも網あるし網でなんかして遊ぼうぜ、でしょ。

「失敗しても良いと思ってます、それをバネに成長します」みたいなポジティブシンキングなのでもなく、遊びなんだから、真剣にやって失敗したらあーあって思うし、出来らおーって思うけどそれだけで、逆に言えば何ができてもおー程度のことでしかない。どっちにしたって楽しい。成功も失敗もないってのが一番ちょうど良い感覚かもしれません。

じゃあなんでわざわざ起業すんだよって言われたら、いやだから、なんか旗とか立てたら目印になるし雰囲気出るじゃんみたいなことです。誰か興味持ってくれたら嬉しいし。場合によっちゃ何人かでやらないと無理だったりするし。

「そんな志低くて大丈夫なの?」って言われたら、いや低くないよ、ほんとに本気でお城作ろうと思ってんのって言う。楽しみたい、この海でしかできないこと、やりたいことちゃんとやりたいって気持ちは強い。

「遊びじゃん」って言われたら、いいじゃん別にって言う。もうだんだん一応仕事って体でやってるけど好きなことしてるだけだったり好きなことするための演出だったり社会的な手続きばっかりなんだから、どうせ仕事はもっと遊びめいてくるよ。

でもここがダメだったらとても傷つくというところや、落ち込むことはあります。起業っていうのは砂でお城作るくらいのことだけど、「その遊びを通してどうしたいの?」「どんな景色を見たいの」「どんな一瞬を作りたいの」ってところが果たされなければ凹むはず。

そしてそれはそれなりに、他者が関わり、社会に関わる。失敗したくない。

だからこそ、会社程度のものだけに「成功・失敗」を託すようなことはしない。そういう意味で起業は目的ではなくあくまで手段の一つとして扱うことが重要になると思います。

言わばここが僕の経営理念になりますが次回書きます。

 

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