『STEAL LIKE AN ARTIST クリエイティブの授業 ”君がつくるべきもの”をつくれるようになるために』
の中で、「自分の系図をたどる」という項目がありました。
自分はどんな作品でできてるだろう?
自分はどんなアーティストに影響を受けているだろう?
本に書いてあったのは、尊敬するアーティストを一人定めたら、その人が影響を受けたアーティストを3人、そしてその3人それぞれ影響を受けたアーティストを、という風に、どんどん遡っていくというもの。
影響を受けた作家① 谷崎潤一郎
僕が意識的に影響を受けているのは谷崎潤一郎であり、系図を作成するために、谷崎潤一郎に影響を与えている作家を調べました。
ちょうど手元にあった小林秀雄の『文芸評論』に谷崎潤一郎の頁があって、そこには以下のように書かれていました。
人々は氏がつとにポオ或いはボオドレエルの影響を受けた事を云々した。一体、影響という言葉を文芸批評家達から奪って了うと、大変な不都合を感ずる程、この言葉は便利至極なものであるが、この言葉の濫用は、一般に駄洒落であるのが通則で、言わば太陽の光線の影響で色が黒くなったと言った様な、見る人の眼に明らかな部分に、又、当人も明らかに自覚する部分に、影響の真意はないのだから、そういうものには、影響と呼ぶより模倣と言った方が遥かに穏当だ。『文芸評論 上』144‐145p(旧仮名遣いは現代仮名遣いに換えて引用しました)
この前提の上で
「ポオやボオドレエルの模倣は、谷崎氏の作品、特にその初期の短編に見られる。」
「影響という言葉の完璧な意味で、ポオはボオドレエルに影響を与えた。」
と書いてあり、何となく系図が見えた。僕は早々に満足した。
それぞれ3人ずつ系図を辿ると『STEAL LIKE AN ARTIST』 には書いてあったけれど、それはエドガー・アラン・ポーとボードレールをきとんと読んでからにしようと思いました(めんどくさかったという理由が大きいよ)。
まあでも本当に、ポーは数作、ボードレールはまともに読んだことがないから、まともに読んでからにしようと思いました。
影響を受けているのではなく、拙い模倣をしている
ところで、小林秀雄の『文芸評論』を読んで、僕がやっているのは「模倣」なのだと気づきました。
実際、影響を受けた作家なんて言い方をするのもなんかエラそうで憚られるという感情はあって、「模倣」をしていると言った方が確かに穏当な気がする。
また、『STEAL LIKE AN ARTIST』を読めばその認識も改める必要があることに気付きます。
模倣するんじゃなくて、盗まなきゃいけない。
良いと思ったものは盗んで、それが分からないくらいに、精一杯自分のものにしなければならない。
人間には偉大な欠陥がある――完璧なコピーが作れないってことだ。ヒーローを完璧にコピーできないからこそ、そこに僕たちは自分の居場所を見つける。そうやって人間は成長していく。『STEAL LIKE AN ARTIST』49p
この本は、影響を受けること、オリジナルから遠ざかることを恐れず、良いと思ったものに憧れ、受け入れ、自分の血肉にする応援が溢れています。
どれだけ他の誰かになろうと思ってもそれは無理で、でも他の誰か、無性に憧れた誰かにはどれだけ頑張ってもなれないってことが、創作者にとっては希望なのだということを教えてくれるのです。
僕が影響を受けたい3人
本当は谷崎潤一郎が影響を受けた人物を3人、そしてその3人のそれぞれ影響を受けた人を3人と挙げていくのが正当なやり方なんだけど、僕にも3人、憧れの、技を盗みたい人はいるだろうかと自問してみました。
ということであと二人。
舞城王太郎
小林賢太郎
「○○郎」で統一しているわけじゃないですけど、そうなっちゃいましたね。
舞城王太郎は小説家ですが、小林賢太郎はコントを作る人です。小林賢太郎氏の現在の肩書きは「劇作家/パフォーミングアーティスト」となっているようです。
かなり影響を受けています。いや、好きでずっと作品に触れていて、つい真似してしまうという感じです。でもつい似てしまうところがあるとかではなく、臆することなく、意識的に技を盗まなければならないですね。
創作をする上で何をとは言わないけれど盗みたくて盗みたくて仕方ない、喉から手が出るほどその才能が欲しいと思える憧れの二人です。
そして気付いたことがある。最大の気付き。
それは、谷崎潤一郎は舞城王太郎も小林賢太郎も知らないということ。
谷崎潤一郎は舞城王太郎も小林賢太郎も知らない
谷崎潤一郎は舞城王太郎の作品を読んだことがない、谷崎潤一郎は小林賢太郎の戯曲を知らない。
そんな風に思うと、僕は谷崎潤一郎のエッセンスを意識的に模倣しながら、谷崎潤一郎よりも面白い、現代に即した作品が作れるんじゃないかという気持ちになります。
谷崎潤一郎に対するアドバンテージがあるとしたら、谷崎潤一郎が絶対に触れられない素晴らしい才能に今、僕が触れているということ。
谷崎潤一郎が絶対に書けないものが僕には書ける可能性がある。
それに気づいたとき、最高の気分でした。
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