町も生物だとしたら、ドーピングでは一時的にしか元気にならないと思う。

朝日町にあるあの洋館はなんだ!増殖する和洋折衷建築

でも少し触れた話なんだけど、町とか建物とかも生き物のようなもので、必要に応じて細胞が増えたり減ったりするように成長・もしくは退化していくものだろうなと思います。

よく使うところは発達して、あまり使わないところは退化する。

その結果が現在の都市集中型の人口分布に表れていたり、過疎地域の衰退に表れていて、それはある意味、生物的に捉えれば自然なことなのかもしれないけど、生物的に捉えればこそ不自然な話なのかもしれません。

何が不自然かというと、例えば僕らの体にも中枢というものがあって、確かに血液はそこを優先に巡るものだけど、主要地点にさえ栄養があれば良いというのは、いわゆる「健康」という状態とは呼べないのではないかという意味で、です。

普通僕たちが捕らえている健康というのは、手足の先や、髪の毛と言ったところにまで栄養が行き届いて、「全体が活発に活動できる状態(それぞれの役割を適切にこなせる状態)」を言うはずなのです。

中枢の成長や発達のために全体が不健康になりQOL的なものが下がるのであれば、あまり良い状態ではないですよね。

食料不足じゃないのに不健康とか、現代は特によくありますもんね。お腹は満たされているけど運動不足で肩こりや手足の冷えが激しく、思考も鈍いというような。

人の体は国の縮図だなと思います。

そうなるとたいていの人はどっかでこれヤバいって思って、本来なら(ずっと昔なら)わざわざしなくてもよかった汗をかく運動をしたり、筋力トレーニングをしたりするものでしょう。

そういう類の、国の不健康を改善しようとする意志としての田舎ブームだったり、まちづくりだったり、地域活性化、移住促進なのだと思います。

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僕らは結果を欲するあまり姑息なドーピングを繰り返すことがある

生物的に地域そのものや人間の営みを捉えると、中には不自然なことも出てくるのかなと思います。

不健康なら健康になろうと思うのがとりあえず普通の考えであるとして、食事を見直そうとか、運動をしようと考えるのが時間はかかるが一番素朴で堅実な方法だと思うのですが、中には手っ取り早く注射で何とかしようとか、サプリメントを使おうとするような行動もある。

地域を活性化させるために複合的な商業施設を作ろうとか、地域を舞台にしたアニメや映画を作ろうとかいうのが(特定のどこかの話をしているわけじゃない)注射やサプリメントに当たるのかなと僕は思うのですが、こういう一時的な、言わばドーピング的地域活性化が行われるようになる。ドーピングというのは言葉が悪いけど。

「物語」に対するアレルギーと二番煎じのまちおこし

「不健康」が根底にあるが故に、手っ取り早い解決法や劇的な改善を望む気持ちが僕らにはあります。

例えば最近物忘れが激しいなと感じたら、よく噛んで食べるとか、人とお話しするようにするとか、頭を使う作業を増やすとか、そういう地味なことをしていくのがベストだとは何となく分かってるのに、そういうのすっ飛ばしてDHAのサプリメントを選んだりするのが人情です。

僕らはなぜか、今日払った対価に見合った価値は明日受け取れると思い込む傾向がある。

サプリメントを飲めば明日から頭が冴えたり、便秘が治ったりすると期待する。

便利な時代だから…とか言うのは簡単だけど、それも結果論であり、言わば「手っ取り早い解答」であり、その場しのぎの姑息療法でしかありません。

少しでも早く、便利に、簡単にというものを、ずっとずっと好んで来たからこそ今があるのです。短絡的な思考も昨日今日できたものではないのではないかと思います。

不健康や体の不調であれば一大事だし不快だからなおさらだと思うけど、その発想や行動原理は、地域の活性化や快適なまちづくりと言った営みにまで波及しているように見えます。

文脈を意識することはほんとうに大事だと思う

結論めいた何かがある訳ではないのですが、僕らにはこういう傾向があるということに対し自覚的になり、競争心や功名心に惑わされることなく、また焦燥や不安にも駆られることなく、日々文脈にそったまちづくりをしていけたらなと思います。

結果はそうそうコントロールできないけれど、僕らは文脈を作ることができる。これはこれまでにもいろいろなところで言われてるような気がするけど、本当に大事だと思う。

文脈というのは後ろを見れば一本道だけど、目の前には無数の分岐点がある。

その結果としての複合型商業施設という文脈も絶対にあるから、それがダメで無駄と言いたい訳じゃなくて、それがどれくらい文脈に沿った自然な結果なのかを考えていきたいよねという話です。

結果を先取りして、色々すっ飛ばして行動してないだろうか。ストーリーとして不自然じゃないだろうかって考えていきたいのです。

その結果の一つとして準備できることはしておくというような、未来に過剰な期待をするのでもなく、保険的な何かで不安を和らげるでもない、普通な感じ、自然な感じを意識したいなと思っています。

てか今ちょっと思ったんだけど、本当は結果を先取りしてあれこれやるんだけど、企画書とか稟議書的なもののためにあとから文脈を添えるという手もあるかもしれませんし、よくやるのかもしれませんよね。結論から逆算するみたいな。

こういう場合はどうなのかな。あとからでっちあげたものがそれらしければ問題ないのかな。それとも「あとからでっち上げる」という姑息療法にはやっぱり穴があるのかな。

町も生物だとしたら、ドーピングでは一時的にしか元気にならないと思う。(完)

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