超絶シェア社会/ゴールはおしっこ漏れそうな人がゼロになること

「シェア社会」とか、「シェアリングエコノミー」なんて言葉をよく耳にするようになって久しいですね。

行き過ぎた消費社会へのカウンターパンチであり、もったいない精神の体現であり、誰かと繋がりたいという気持ちを満たす手段でもある「シェア」の合理性は、日に日に高まっているように見えます。

同時にシェア社会の行く先ってどうなんだろう?という疑問も湧いてきますね。

こないだあるコンサート行ったんだけど、帰りに遥かな行列の一部となり、おしっこ我慢しながらそういうことを真面目に考えました。

おしっこ我慢しながらだったからか、というか我慢しながらだったから、誰がどれくらい緊急かという生体情報までシェアできるようになったらゴールだなって思ったって話です。

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おしっこ我慢人口ゼロは達成可能な未来か?

「シェア社会のゴールはおしっこ漏れそうになる人がゼロ」になることだよなと思いました。

けっこう至るところで思います。男性だとあまりないけど、女性だとよくトイレの行列できてますよね。あの列の後ろの方で、5人前の人よりよっぽど限界が近いって人はいるだろうなって。

あと飛行機とか電車降りるとき、今一分一秒でも早く降りたい人が僕の後ろにいるかもしれないって思う。

そういう緊急度の深刻な順にいつも人の列が出来上がっていたら誰一人焦らずに済むのに。

あなた私より全然緊急じゃないですか!前へどうぞ!的なことが客観的な情報に基づいてできたらすごい。

絶対無理なことは分かってます。まず自分のおしっこ漏れそう具合が人にバレるのは嫌だってだけで無理です。生体情報までシェアできたら世の中もっとスムーズになるだろうけど、そんなのよく考えなくても机上の空論です。

それに仮にそれができたとしたら、逆に気遣いとかそういうのが無くなるんだろうと思う。それが果たして悪いことなのかは分からないけど、顔色伺って「よかったらお先にどうぞ?」っていう光景は失われ、当然「うわぁありがとうございます!」ってのも無くなる。

機械的に並び替えられて、無感情に目的を達成するようになれば、人はいよいよロボットになる。問題は解決できれば良いのではなくて、解決しようとする意思こそが人間の仕事なんだろう。

モノに溢れた現代社会で、なにより人間性を取り返したい僕らはシェアすることで問題を解決したいのではなくて、ただシェアしたいだけ、分かってほしいだけなのかもしれない。

シェアという仕組みを使ってコミュニケーションが取りたいだけで、実はシェアに関して語られる合理性というのはコミュニケーションを円滑にするための口実でしかないのかも。

そこに社会的な意味とか、経済的な合理性とかをぶつけられると、なんかちょっと冷めちゃうところもあるんだろう。思いやりとか気遣いと言ったものもあると思えば詰まらなく、期待しないからこそ嬉しい。だから僕らは本当に複雑だと思う。

にしてもおしっこ漏れそうなときはそんな悠長なこと考えられないですよね。おいみんなどけよ!って思う。それに人の緊急度なんて仮に分かったって自分を優先したいと思うのがまた人間の人間らしいところですよね。世界より私が大事。

ただ、世界中のおしっこ我慢人口を減らせたらいいなと思うのは僕の純粋な気持ちではあります。

超絶シェア社会/ゴールはおしっこ漏れそうな人がゼロになること(完)

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