人を褒める特殊の技術‐書評もしくは賛辞をおくる準備について

評論・批評とは/小林秀雄の評論はすべて『考えるヒント』だ

という記事で、「批評とは人を褒める特殊の技術だ」と小林秀雄がある文章の中で書いてあると紹介したけれど、あとからジワジワ、それって良いな、という気持ちになってきた。

人を褒める特殊の技術。

特殊ってあたりが批評の批評たる部分だよなと思う。

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僕は書評が書けない

僕はなかなか書評とかレビューとか書けない質なんだけど、たぶん何を書いて良いか分からないからなんだと思います。なんか恐怖を感じるんですよね。

あと、そういうブログは「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」だけで十分だろうという気分もある。スゴ本を探し続け、未だ熱冷めやらぬというような文体で魅力的な本の紹介をし続けるこの人スゴイと何度思ったか。

褒めるという視点は基本だろうとは思う。「スゴ本」ってもうそれ以上も以下もないくらい褒めてるよなと思う。

僕も好きな本、感銘を受けた本について書きたいと思うことは思う。わりと強く。

でも、例えば書評をどんどん書くぞと思うと、ちょっと読んで面白かった本に無理やり美辞麗句をつぎ込み、自分が感じた以上の感動を演出するようになりそうでしんどいなと考えているのです。

文章上で、一を十にして感動してみせる、みたいな。

多分これは、都甲幸治『狂気の読み屋』の一文に触れてから増した恐怖心だと思う。

それまでの僕は、サッと作品を読んで気の利いたことを言うのを得意としていた。日本語でなら、厚い本でも一日か二日で読める。友達の前でも授業中でも、こうしたら頭がよく見えるだろう、なんてことをすぐに掴んで議論をリードしていた。こいつはできると教師が最初は期待するものの、その後どうにも伸び悩む学生の、まさに典型的なタイプである。それでも周囲が喜んでくれるから、自分は優秀な方なんだろうと自惚れていた。株式会社共和国『狂気の読み屋』p11-p12

何と言うか、「褒め慣れた文章」みたいなのが頭の中にあって、ややもすると僕はそんな風になってしまうだろうという予感があった。

スゴ本の中の人みたいに、膨大な読書経験の蓄積と哲学を踏まえた上で出てくる文章じゃなくて、要領良く褒める文章というか、上っ面を撫でただけの、そういう、良くも悪くもブログ用の文ばっかりになりそうだなと。

それまでの自分は、さっと作品の流れやテーマを掴んで、すぐに結論に飛びついていた。言いかえれば、自分がすでに持ち合わせていた枠に勝手に作品を押しこんでいただけである。そうやって出てくる読みは、ある程度は面白くても突き抜けたものがない。手持ちの札をじゅんぐりに回しているだけだから、すぐにマンネリ化してくる。同上p13

もちろん、都甲さんのレベルで言ってるこういうことと、僕の言う要領の良い文章ってのはそもそもレベルが違うだろう。

違うけど、こういう方向に突き進みそうな自分を感じて、ブログに読んだ本のことを書くことに二の足を踏んでいました。

ちょっと話は逸れるけれど、大人になって「だいたいちょっと話しをすればそいつがどんなヤツか分かるんだよね」と言う人が意外に多いことを知っておかしな気分になったことがあります。

社会経験を積んで、いろんな人と会って、自分の頭の中で類型化が済んだと思うのかもしれない。本当にけっこう多い。自分の人を見る目を信じている人。人のことが分かると思っている人。

これもまた類型なのかもしれないけれど、こんなことを言う人に僕は、例えば悩みを相談したりすることはないと思う。

よくある話にされてたまるか、俺もそういう時期あったわ、なんて言われたくないし、だいたいその歳でそういう悩み出てくるよねとか、そういうタイプだよね、とか。

「自分がすでに持ち合わせていた枠に勝手に作品を押し込んでいただけである」

これは日常でも感じる。人に、そして自分にも。

先入観も偏見も排除するなんて無理だし、ときに類型は知恵であり、予測があるから驚いたりもできるわけで、ただ凝り固まった思考が悪とも思わないけれど、決めつけたと気付く準備、決めつけを疑う心構えは必要と思う。

本を読んで、読みなれて、自分がこうなるのが嫌なんだと思う。要領良くポイントを掴むとか、決めてかかって、はいはいこの本の読みどころはここだと思ったりするのが。

書くにしろ読むにしろ、好みと目的の違いの問題だから、何が正しいってことはないんだろうけど、あまりに要領良くできてしまうと辛くなるんだろうと思って、読んだ本の話をすることに、積極的に取り組めなかった。

でも考えなきゃ始まらないし『考えるヒント』もお手本のようなブログもあるのだから、ぼくなりに探り探りやっていこうと思えるようになりました。

人を褒める特殊な技術を得るための本の読み方

『考えるヒント』を読んで、そうか、人(作品)を褒めるというのは、特殊の技術なんだ、と思うと、なんとなく道が開けた気がしました。

人を褒めるには(作品を理解するには)それなりの準備と、誠実さが必要だ。なんか、こういう許しみたいな厳しさが欲しかった気がする。

だって、褒めるってある種の暴力で、甘んじて受け止めるしかないというところがあるだろう、って思うから。

褒めたり、褒められたり、なんだか、ピコピコハンマーとかスポンジのバッドで殴り合うゲームみたいな、痛くもないけど一応身構えちゃうし、傷跡が残ったりはしないんだけど他者に力を加えられたというストレスは、愛と配慮なくして許されるものじゃないと思う。

人を褒める特殊な技術の特殊なという部分を身に付けるために、どんな風に読書と向き合えば良いのかということも、小林秀雄にヒントをもらいました。

『文芸評論(上)』のなかに「作家志願者への助言」という文章があります。

助言とは難しいと言いながらも、読むことに関する助言として5つ挙げています。

  1. つねに第一流作品のみを読め
  2. 一流作品は例外なく難解なものと知れ
  3. 一流作品の影響を恐れるな
  4. 若し或る名作家を択んだら彼の全集を読め
  5. 小説を小説だと思って読むな

それぞれ注釈が必要だろうけど次回以降の記事でもう少し詳しく触れるとして、これが小林秀雄が実践する読み方なのだそうです。

特に4と5は目から鱗というか、心の中で素直に頷ける助言だった。

また、5の「小説を小説だと思って読むな」は、読み手にも書き手にも響く助言だと思う。

「小説を小説だと思って読むな」はその後の全文を引用させてもらいます。

文学志願者の最大弱点は、知らず識らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお蔭で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起こる。当人そんなことには気がつかないから、自分は文学の世界から世間を眺めているからこそ、文学ができるのだと信じている。事実は全く反対なのだ、文学に何ら患わされない眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がるのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで充分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。巧いとか拙いとかいっている。何派だとか何主義だとかいっている。いつまでたっても小説というものの正体が分からない。筑摩叢書『文芸評論(上)』p244

人間観察からの卒業

という記事を昔書いたんだけど、たぶん昔の、人間観察ができると思っている自分が文学にたぶらかされていた状態なんだと思う。

「だいたいちょっと話しをすればそいつがどんなヤツか分かるんだよね」

と、口に出さないまでも、心のどこかで自分には観察力があって、人間を見る目があって、故に文学を志せるのだという驕りみたいなのがあった気がする。

文学的な目を持っていて、文字を操る上では神にでもなった気でいる。

そういうのから完全に離脱するのは難しいけれど、たぶんこういう風にモヤモヤ考えることがヒントになるのだと思う。

単なる言葉だ、単なる心だ、という態度を、人と接するときも本と接するときも持っていたい。

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