【今日の1%】小説を書くことで作った小さな世界は書物の山を越え、現実の壁を越えて、世界を飲み込むような気がする

小説を書く人間はとにかく数多くの作品に触れた方が良いのか、それともいくつかの本を深く深く読んだ方が良いのか、という議論が(僕の中で)ある。

答えは簡単で、こんなことを考えるくらいなら一冊でも多く読めば良いし、好きになった作品は何度でも気の済むまで読めば良いし、気が向いたら一つの作品を研究してみれば良い。

中には人の小説なんて読まないで小説家になったという人もいると聞くけど、多くの場合小説を書く人は読書家で、おそろしい量の作品に触れている。

だからよほどの才能と運がない限り小説を書きたいなら小説を読むべきだと仮定して、じゃあいったいどれくらいの量を読めば良いのだろうと考えた。

いや、てかそもそも今まで何冊くらいの本を読んだんだろう。

いやでも待てよ、今まで読んだ本のいったいどれくらいが脳みそと心に刻み込まれてるんだろう。

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一冊の本から得られるのは1%くらい

読んだ本を思い返してみても、ほとんど内容を覚えてない。

本の感想とか書評とか上手に書く方はたくさんいるので、読んだ本の内容を覚えないのは僕の能力が低いからなのかなと思ってる。

書評や感想を書くつもりで読めば読み方も変わるだろうと思うけれども、ただ本を読んで頭の中に残るのはいったいどれくらいだろう。

感覚で言えばたぶん1%くらい。

そういう1%が積み重なって、100%くらいの要領に達したとき、やっと短編小説一本分くらいを書く素地ができるのではないかなという感覚です。

しかも書けるというだけで、良いものを書けるのとはまた話がべつ。

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多読でも良いし、精読でも良い

もし、1%が積みあがって100%の容量に達したときにやっと短編一本というようなペースというのが本当なのだとしたら、僕の場合、長編を書こうとしたときにはより膨大な量の本を読まなければならないということになる。

ここまで来て、最初の疑問に立ち返ると、本の読み方はとにかくたくさんの1%を稼いでも良いし、気に入った小説を80%くらいまで読み込んで、あとの20%を他の作品で埋めるとうう手もあるんじゃないかと思う。

よって、結局のところ多読でも良いし、精読でも良いのだろうと思うのです。

現実だって1%の積み重ねで

もちろんそんな杓子定規なものじゃないと思う。

そもそも一回の読書で1%程度しか頭に残らないというのは僕の事情だし、100%の容量というのも人によって違うはず。

何も言ってないのと同じくらい実のないことをここまで書いてしまった罪悪感があるけれど、最後に少し気の利いた話がしたい。

本だけじゃなくて、現実だって覚えている言葉やシーンや感情は、全体の数%だろうなということ。

今までの人生を思い返してみて、例えばあの先生には一年教わったはずだけどあのときのあの言葉しか覚えていないとか、あのときは友達と遊んで楽しかった記憶はあるけど、みんなの笑い顔が浮かぶだけでどんな話をしたかは覚えてないとか。

あのとき、バスに乗ったことは理屈で覚えているけれど、実感は「揺れとにおい」でしかないとか。

同じく病院で気になった自分の足音や、大学時代を思い出せばいつも斜陽が差すとか、海外旅行の一番強い記憶はなぜかローカルニュースを見たことだったり、徹夜でこなした仕事は忘れたけど明け方コンビニに行ったことは覚えてたり。

そういう、全体の1%にも満たないんじゃないかって断片がなんとなく僕の頭の中に積み重なって、僕の記憶や僕の人格はできていて、そこから文章ができていると思う。

なんと乏しい。

小説で作られた世界は書物の山を越え、現実の壁を越えて

こんなのいつだって考えていたことなんだけど

小説を書くなら現実の体験が重要なのか、それとも人と比べものにならない読書量が必要なのか

という疑問だって、ここまできたら湧いてくる。

でも小説を読むという体験だって現実のものなのだから、小説を読む時間は現実に覆われている。だからやっぱりこの問いも意味はない。

それは入れ子の構造で、そのさらに内側のとても狭い領域に文字による概念を作って、より複雑な入れ子を作っていくのが小説を書く行為な感じがする。

しかしそうやって作られた小さな世界は書物の山を越え、現実の壁を越えて、こう、ぐるっとまるっと世界を飲み込むような気もする。

それは脳みその中に宇宙がある、みたいな不思議な感覚で、同時にこの宇宙が誰かの脳内である可能性を考えるようなことで、ただ不思議。

不思議だなあと思ったのが今日の1%。

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