移住者を目的としないまちづくり。自分のところで止めない。

まちづくりを考える

まちづくりはしばしば「移住者の増加」を目的とするけど、僕は「自分のところで止めない」という意識が必要だと思います。

「まちづくり」って言葉が衰退しつつある、どんどん古くなっているという記事を書きましたが、この「移住者の増加」や「移住の促進」という目的も、古くなりつつある要素の一つだと思う。

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移住者を増やす目的のまちづくりじゃない

「まちづくり」に関心があって、こういうことやってて…とかいう話になると、「移住者増えたら良いね」というような応援?をいただくことがあります。

ここまでストレートな物言いをすることは滅多にないですけど

「仕事があって、あとは結婚相手でもいたら居ついてくれるのにね」

「結婚させればこっちのもん」

みたいなことを冗談交じりで言ったりするのを聞いたこともあります。

昔の会社かよってノリですが、誤解のないように言っておくけど、これは半ば自虐で言ってるのであって、本当に言葉通りなわけではありません(多分)。

「仕事もそんな無いし出会いがある訳でもないだろうし若い人はそりゃ来ないよね」みたいなことの裏返しで言うのだと思います。

ただ、少なくとも僕は「まちづくり」に関心はあるけれど、移住促進という目的は持ってないです。

もちろん移住したいという人がいればそりゃ応援はするけど、移住とか定住がまちづくりのゴールだとは思っていない。

 

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交流人口を増やすためのまちづくりでもない

じゃあ、お前はいわゆる交流人口が増えれば良いと考えていて、そのために色々考えているのかい?と言われても、なんか違う。

そうなんだけど、そうじゃないです。

観光でもイベントでも何でも良いけど、とにかく人が巡るようになれば良い、人が通る場所になれば良いと僕は考えているのか。

それでもってまちが活性化すれば、色々と波及効果が望めるから、地方はそういう風に生き残るべきという話かい?

うん、まあそうなんだけど、そうじゃないのです。

そうじゃないって言いすぎてダダこねてるみたいになっちゃいそうだけど、きっと僕が持つ違和感は

人を「物体」とか「数字」として扱っており、人々の「消費」を求めているところ

有体に言ってとにかく「金を落とせ」と言っているようなもので、お金の落としどころとして地域を作っていこうというのは、やっぱり「止める発想」なんです。

それは人の暮らしを考えるはずの「まちづくり」の発想として古いと僕は思う。

何でも誰かの人生の途中に位置する

じゃあ「止めない発想」っていうのは具体的にどういうものなのか。

少々キレイごとめいたことを言うようだけど「道の途中にいる他者をリスペクトすること」だと思います。

肉体的な意味でも、精神的な意味でも。

当たり前のことですが、どんな人の人生も過去もあれば未来もあります。

どんな人の今も、「何かの続き」です。どこかに行く途中、何かになる途中、もしくはここにいる自分を感じている途中であったり、何かである自分の途中です。

例えばライターならそこでどんな記事を書けるだろうと考えるし、写真家ならどんな写真が撮れるだろうと考える。

だからそこに来る人はそういうオリジナルストーリーを生きているあくまで「人」であって、自分の長いストーリーの一場面としてそこを選ぶのだということを考えてやっと「まちづくり」になるのではないかと思います。

つまり、ここに留める、ここで止める、ここで落とすではなく、「ここでどんなものや経験が与えられるだろう」「ここに来ることでこの人の未来にどんな良いことが起きるだろう」と考えてやっと「まちづくり」の核が生まれると思う。

僕らのファジーな部分

ここまでを踏まえて、僕がこの記事でもっとも書きたいことは僕らが持つわりと曖昧な部分についてです。

僕らが求めている理想の自分像や理想の時間の使い方像は本当はもっと漠然としているのではないか。

僕らが人生に描くビジョンというのは、こうなりたいとかこうありたいとかこうしたいって明確に言葉にできるものは本当は思ってるよりずっと少なくて、もっと漠然としていて、しばしば匂いにつられるようにして道を選ぶようなこともあるのではないか。

もしくは自分では無意識のレベルで行っていた選択が、どうしようもなくその人となりを表しているんだけど、それに自分で気付くのはとても難しい、とか。

何かの途中で、何かを目指していることは間違いないんだけど、それが何で、どこなのかは分からない。

きっとこうなりたくない、みたいなビジョンはもっとはっきりとしている。

だけどベストをベストと信じるには自信も根拠も少なすぎる。でもやっぱり自分が惹かれてフィットする何かがどこかにありそうな気がしている。そういうファジーさを僕らは持っている。

内省の場所、次に繋がる場所

僕らは自分が求めているものすらうまく言葉にできなかったり、自分でもよく分かっていなかったりする。

だからせめて「自分が求めているものがありそうな予感」くらいは伝える努力をしなければと思うのです。なんか良い匂いするなーくらいのヒントを与えられるまちが作れれば良い。

人はこれを求めてる、さあ来い!ここに来て金を落とせ!ということを考えるのなら、やっぱり「止める発想」になっている。

あそこなら何か掴めそうだ、次へ繋がりそうだという予感こそを、僕らは用意しておく必要があるんじゃないかと思うのです。

そして誰かの人生の向上や発展に寄与し、次の場所に繋がったり、何かを持ち帰ってもらえたりできれば、きっと本当に意味で「交流人口」が増やせるようになると思う。

移住者を目的としないまちづくり。自分のところで止めない。(完)

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