スタバで読む本は何がベストか問題って解決したの?

そもそも問題になってないのかな?

スタバとかでどんな本を読むのがベストなのか。

僕の中では未だにこれは問題です。

それ以前に「スタバで本を読む必要があるのか」、いや「スタバに入る必要があるのか」といった問題だってある。

おまえみたいなモンがオシャレにコーヒータイム楽しもうとしてんじゃねえよ、似合わねえんだよコンビニで立ち読みしてるかジュースでも買って駅の目立たないところで座ってろよってつめったい声が聞こえる。

いやでも待ち合わせの時間まで40分とか微妙な感じだし、歩き回るのもしんどいから座って本読みたい気分なのは本当だし…あとほら寒いし、としなくても良い言い訳を自分にしてやっと店内に潜入したとき、ふと思う。

カバンの中に入っている本がスタバ読書に相応しくないものなんじゃないか。

冴えない田舎者としてはスタバ的なところを前にするとどうしても自意識過剰になってしまう嫌いがあって、一挙手一投足、「これで良いのかな?」と考えてしまいます。

この記事を書くのだって、「今さらスタバのあるあるネタみたいのぶっこんでくるとか8年くらい感覚遅くない?田舎にいるとそうなっちゃうの?」って思われないかなあ!とか考えちゃう。

だから「スタバで読む本は何がベストか」って問題で躓いてるのもしかして僕だけか?という気持ちもあって、既に解決してるなら意地悪しないで教えてほしいし、そうじゃないならちょっとちゃんと考えようよもう無駄にドキドキすんのやだよって趣旨です。

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自意識過剰という病気

元も子もないこと言う人は、「そもそもお前が読んでる本なんて誰も気にしてないよ」って言うんだろうけど、そんなことは分かってるんだ。

僕はスタバに限らず地下鉄の中とかでも人が読んでる本は気になる方だけど、実際はブックカバーしてたり表紙が角度的に見えなかったりじろじろ見るワケにいかなかったりでそのタイトルを特定するのは難しいですし、それはよりゆったりしたプライベート空間を作るスタバみたいな場所であればなおさらです。

誰が何を読んでようが、それが何の本なのかはだいたい分からないし、分かったところで実際どうこう思われるワケじゃない。

それは分かってるけど気にしちゃうのが自意識過剰っていう病気じゃないですか。

言わばこれから書くのは自分の自意識を納得させるための考察であって、世間的に何がベストなのかという話ではないのです。

あともう一つ元も子もないことを言えば、「今は電子書籍で読む人の方が多いからなし崩し的にその問題は解決してるんじゃない?」ってこと。

うんそれもそうだよね。電子端末使われたらそもそも本読んでるのかブログ記事読んでるのか下手したら動画を楽しんでるのかすらも曖昧になってくるもんね。

でもだからこそなんですよね。だからこそスタバにわざわざ本を持っていくという行為が浮き立ってくるように思えるわけです。

最近ではあらゆるメディア、あらゆるコンテンツに簡単に触れることができるのに、その中でも読書を選ぶということは読書に対する一定の信頼感があるのだろうし、紙の本を選ぶときはそこに自他ともに認める「読書時間」が構成されるわけだから、少なくとも「読書をしている」という自意識はあるはず。

そんなフラットな自意識から、「読書家に見られたい」「賢そうに見られたい」というささやかな欲望が上乗せされるのがスタバをはじめとするカフェ全般に充満する魔力ではないか。

だっていくらぼくわたしはそんなくだらない自意識無いよという人であっても、スタバとかで漫喫みたいに漫画積み上げて読むのは抵抗あるはずなんだよ。少なくとも読むなら「小説」が最低ラインだよね、みたいなのがあるはずなんだよ。

それが無駄に想像力が豊かな読書家であれば、あああの人は僕のこと「かっこつけてるだけ」に見えてるんだろうな、ああこっちの人は「レベル低いもん読んでるな」って思ってるかもしれないな、あの女の子は「なんかキモいな」って思ってるんだろうなって思って読書どころじゃない。

どんな本を選んでも、満たせる自意識と満たせない自意識がある。つまり一長一短がある。

まずはここのところ、いかに自意識を満たすのが難しいのかを、実際に候補を挙げながら考えてみる。

候補①流行の本・ベストセラー

スタバで流行の本を読む。

個人的には悪手だと思うからスタバのお供に選んだことはないけど、変に読書に対してかっこつけず、あくまで一コンテンツとして楽しんでる感じが出せて逆に良いのではないでしょうか。

読書に対する幻想値が低く、楽しそうだから読んでるっていう純粋な印象がある。「別に普段から読んでるって思われなくても良いし」という態度が伺えて、スタバ読書で気負わないという意味でもっとも洗練された読書なのではないでしょうか。

ただ、流行の本がどうして流行の本になるかと言えば、普段本を読まない人が読むからであって、それは周知のことなんだから、「普段からよく本を読むヤツ」という自意識は捨てなきゃならない。

仮に実際は普段からよく本を読む人であっても、流行の作品を読んでいる人を傍から見たら「普段は本読まないけど話題になって気になったからきまぐれに読んでる人」に見えるもんなんじゃないの。

このことを踏まえて、これをやるなら王道の流行ってるヤツ読めよというのはある。

流行った小説家のちょっと前のヤツとか読むとちょっと自意識が出てきちゃってますよね。流行ってるから読んでるんじゃなくて、あくまでファンだから読んでんですよ感がでちゃう。流行ったのは俺が目を付けた後の話だから、っていうメッセージが見え隠れしちゃう。

それは恥ずかしい。自意識過剰ってしなくても良い言い訳しちゃう状態です。体面を取り繕いたい気持ちでいっぱいです。「流行ったから気になるけど、流行ったヤツ選ぶとミーハーだと思われそうで怖いんだな」と思われんじゃないかなあ!って気持ちと戦わなくちゃいけなくなっちゃう。

だから流行りの本を読むのであれば堂々と「今」流行ってるヤツを読むのが良いと思うのです。一番ほやほやなヤツを、やせ我慢しないで、読書家のイメージは潔く捨てて、ただ世間の空気に乗って楽しむんだ。

そうすれば「読書家」という自意識は満たせないかもしれないけど、「普段本読まないくせにスタバとかでだけ急に読書家になる人」には見られないと思う。

小説 君の名は。 (角川文庫)

候補②古典的な名作・文学

「読書家に見られたい」という自意識を持っている方は、古典的な名作を読むと思う。

エンターテインメント小説よりは文学作品を選ぶ。

だけどこれも過剰な自意識を持っているとチョイスを考えてしまいますよね。有名すぎると「それ今読む意味ある?」って話になっちゃう。だってもう当然読んでるでしょ?まさか初めて読むワケじゃないよね?っていう「リアル読書家」の声が聞こえるという症状に見舞われる。

もちろんこれは過剰な自意識が産んだ空想上の敵だけど、空想なんだから相手にしなくて良いのに正面から戦いに行っちゃうのが自意識過剰さんですよね。

ふーんタイトル聞いたことはあるけど読んだことないから復刻版が出たのを機に買って今読んでると。ふーん。

っていう声が怖い。ほんとヤダわ誰にでもはじめてはあるだろうが。

古典的な名作や文学小説を選ぶと、「読書家に見られたい」という自意識を垂れ流すばっかりで、「言うほど読書家じゃない」事実が露呈してしまうおそれがある。狙いに行ってはずすのはまじで怖い。

「大学の課題図書か何かなのかな?ふふ、良い本だよ」って頭の中の読書家がわりかし好意的でほほえましいものでも見るかのような余裕顔でいるのが分かって辛い。

僕これ解消するために文学作品とか古典的な名作とかは古本屋で汚いの買って読み古してる感だそうと思いましたからね。『蠅の王』とか知ってる人は当然知ってるけど知らない人は「ハエ?面白いの?ww」って言われそうな感じの。

でも「本当の読書家なら当然知ってる作品」って言ったって結局自分の中でって話ですしね。古典的な名著ったって全作品読むのなんてほぼ無理なんだし、知ってる作品は有名に見えるし、知らない作品はマイナーに見えるというだけでしょう。ここにも一つ錯覚があるから、所詮は全部自意識の話。

でも一つの手ではある。最低でも教科書とかに出てくる作品は避けるにしても、小説のレビューブログで見つけたちょうど良さそうなヤツを古本で買う。

このチョイスを間違わなければ、「読書家に見られたい」という欲求は高確率で満たされるし(自分の中でね)、その本を知らない人が多そうであれば「似非読書家」だとバレる心配も少ない(自分の中でね)。

でもスタバみたいなところでそういう本に集中できるかって言うと、僕は難しいと思う。そういうのって難解だったりやたら長かったりするし、その場はよくてもあとで「読書家ごっこしてるだけだったなあ」って自省することになる。うまくやったところで、結局自分を似非読書家認定してしまいかねない。

蠅の王 (新潮文庫)

候補③ビジネス書・ハウツー本・英語教材

これは良いですね。

「読書家であること」なんて事実であろうとなかろうと所詮ファッションでしかない。

現実的な社会を生きている人間は常に手ごたえのある成長を目指しているし、どんな空き時間も無駄にしないという気概がある。まわりの人間がゆったりしてる間に高まっている自分。という自意識を満たせます。

仕事に必要な資格の勉強、今後を生き抜くのに必須なスキルを学んでも良い、英語の勉強とかも良いですね。

僕もこの選択肢にたどり着いたことがあります。

これみよがしの英語の参考書開いたり、ビギナー向けの英語の物語読んで「基礎から真剣に語学力を身に付けようとしてる感」を出そうとしました。

すると厄介なことに外国人に話しかけられたりして内心めちゃくちゃキョドるんだけど、過剰な自意識がそうさせないよね。

「英語の勉強中なんだ」とかギリギリの英語力で言ったらやたら親切で「分からないところあったら教えるよ」っていうから「ただいま成長中」の自分としてはこの機会逃しちゃいけないじゃないですか。

マジで分かんないところについては質問する力ないし、質問してもその返答を理解できる力あったらそもそも困ってないし、結局「薄々分かってるけど曖昧なとこ」指して質問したりする。

なにこの時間の無駄。一方で海外の方とコミュニケーションとれたっぽいことで若干満足する俺の実体マジで浅ましい。自意識とやってることが違って恥ずかしい。

痛い目みたから僕はもうやらないけど、スタバとかで腰据えて勉強するのは良いと思う。

問題があるとすれば、「考えてること丸わかり」ってことですよね。

その垂れ流してる自意識が本物なのだとしたら良いけど、スタバ限定の借り物なのだとしたら結局どっかでボロ出るから恥ずかしい思いするよね。

Winnie-The-Pooh, the Original Version

「くまのプーさん」を英語で読み直す (NHKブックス)

候補④エッセイとか

これはもっとも現実的な解決策かもしれません。

エッセイを好んで読む人って「読書家」っていうより「活字中毒」っぽいじゃないですか。

「常になんか読んでないと落ち着かないんだよね」って言いたい人はエッセイが良いと思う。

読めればなんでも良いんだったらなんでも良いんじゃないの?と聞かれたら自分的にはちょっと違って、過剰な物語はお腹いっぱい、だけどノンフィクションを読むならドキュメンタリー映画の方が好み、現実的な幻想世界に触れられる著名人のエッセイが丁度良い。

それに一章ごとに話が変わるから空いた時間に読むには没頭しすぎなくて良いんだよね。ってこういう「押さえきれない活字欲の制御に神経払ってる」というメッセージを人知れず発信することができます。

こうして僕が選んだのは米原万里の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』と思いきや『不実な美女か貞淑な醜女か』です。

ここで文学作品のときの自意識が出ちゃってるけどね。

『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は本読まない人でも聞いたことあるレベルの本でしょう。それをスタバで読む勇気はない、からちょっとはずす。

確かにエッセイを選ぶのは理に適ってると思います。

ちょっと空いた時間に読むには一話一話が短いものが多いエッセイはちょうどよいし、文学作品みたいに難解でいまいち集中できないなみたいなことも少ない。それに例えば『不実な美女か貞淑な醜女か』だったら同時通訳者の仕事のことが書かれているから、全然関係ない世界の人のことなんだけどなんか学べた気にもなる。

スタバ読書にはとても良いチョイスだと思う。

ただ無難なところが気に食わないけどね!

言わば優等生のチョイス、誰にも馬鹿にされないけど誰にも一目置いてもらえない。まったくの無害。それでいいのか僕の自意識。

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か (新潮文庫)

本棚は自意識の塊

もうどうすりゃいいんだよ。まったくの無害で良いじゃないか。本当に自意識過剰っていうのは面倒くさいな。

結局読書には自意識がついてまわる気がするし、過剰すぎる自意識を満たすのは非常に難しい。

本棚を見られるのは恥ずかしいっていうけど、考えてみれば本棚は自意識の塊です。だから恥ずかしいんです。とりあえず読んどかなきゃなってもの、これ読んでたらかっこいいかなってもの、あこういうユルめのヤツも読むんだって思われそうなもの、これ流行ったよねってヤツも並べておきたい(人に本棚見せる機会なんてないんだけどさ)。

書物のそれぞれから「自分はこういう風に思われたいです」っていうメッセージが溢れてくる。そんで結局自分自身、どこに自分の軸があるのかが分からなくなってくる。流転する自意識に翻弄されながら、そのときそのときこれだという本をかき集めるから、どんどん本が積みあがっていく。

整えたい!と思う。無理無理。なんかいっそ乱雑に積みあがった自分の自意識が恋しくなってくる。でも所詮これ間接的な、鏡に映った自意識なんだよな、紛れもない自分から出た自分の自意識をコレクションしたいな。自分の書いたものが並んだ図書館作りたいな。今の僕そんな感じに仕上がりつつあります。

本棚見せるのも恥ずかしいけど、「ふふ裏にもっと恥ずかしい本棚があるんだよな」みたいな、自作小説が並んだ恥ずかし棚を作る試み。

舞城王太郎に決めた

脱線してしまいましたが、スタバで読む本は結局何がベストなのか。僕考えた。

どの本も相応しくないような気がする。

一長一短があって、過剰なる自意識を満たすのにはどれも何か足りない。

読書という神聖な時間を完璧なものにするためには「自意識」というものは邪魔過ぎる。雑念でしかなく、やっぱり大人しく自宅の毛布にくるまって読んだり、ときには歩き回ったりして体面を気にせず読んだ方が良い。それかkindleで読むか。結局泣き寝入りするしかないのかい?

だけどこれは良いんじゃないか?という作品が一つ僕の本棚にありました。

『ディスコ探偵水曜日』

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

これちょっとやそっとの読書経験でついて行ける内容じゃないです。かくいう僕も読了はできたというだけで全貌どころか細部の至るところも完全に理解してるとは言えないけど、とにかく勢いに巻き込まれるままに読むしかなかった。

ふーん、と思ってアマゾンのリンク踏んだ人びっくりすると思うけどこれ上・中・下巻の大作なんだぜ。なんなら上・中・下の順にどんどん厚くなっていくんだぜ。

表紙の萌え絵を見ただけで敬遠する人もいるかもしれません。友達の前でこれ読んだらまるでオタクを蔑む声音で「面白いの?ww」って言われたけど、そもそも友達の前でこれを読むことも、偏見にまみれ軽蔑のこもった声を聞いても、僕の自意識はびくともしなかった。

これを読める自分に満足していたのです。まずこれを手に取ったことに。かろうじてでもストーリーを追えることに。そして楽しい!って興奮できることに。

そもそも舞城王太郎は好きで、でもこれが一番という訳じゃないんだけど、これ持ってたら頭の中の読書家や流行に敏感な若者や女の子や外国人に何言われても大丈夫な気がする。

どんな人の前でも堂々と、これを読んでいる自分に卑屈になることなく、「あ、今読書中だから」って毅然とした態度でいられる。

そんな風に思えるパワーのある小説。

長いし難解だし空いた時間に読むもんじゃないと思うけどね、友達との約束とかもういいかなって、そんな風に思えるパワーのある小説。

スタバで読む本は何がベストか問題って解決したの?(完)

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