井伏鱒二『貸間あり』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』の話/化けの皮が剥がれて見える美

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お知り合いに小林秀雄『考えるヒント』をいただいたのだけど、その中に「井伏君の貸間あり」という論考がありました。

どうやら得信のいったことがある。

それは詩を捨て、驚くほどの形式の自由を得て、手のつけようもなく紛糾している散文という芸術にも、音楽が音楽であるより他はなく、絵が絵であるより他はないのと全く同じ意味で、その固有の魅力の性質がある、ということだ。小林秀雄『考えるヒント』p32(旧字旧仮名遣いは筆者が新字仮名遣いに改めました)

とか

井伏君の「貸間あり」には描写はないというような乱暴な言葉を使ったが、描写という言葉は、所謂リアリズム小説の誕生以来、小説家の意識にずい分乱暴を働いて来たのである 同上p32‐p33

 

のように、小説を書こうとする僕にとってワクワクする文章が並んでいるものの、なんせ「貸間あり」を読んでいないので、いまいち読み切れない感がありました。

そこで小林秀雄が何を言っているのかが知りたくて、井伏鱒二の『貸間あり』を探して読んだのだけど、小林秀雄の論考の中身と照らし合わせていくより先に、これ『リップヴァンウィンクルの花嫁』にそっくりだなって思い至ったことがまず面白かったので、サクッと、どんなところが似てるのかを書いていきたいと思います。

小林秀雄が何を言っているのかを考えるのは、その後にしましょう。

Contents

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『リップヴァンウィンクルの花嫁』とは

『リップヴァンウィンクルの花嫁』は岩井俊二監督による映画です。主演は黒木華と綾野剛です。

プライムビデオの紹介文をそのまま引用しましょう。

七海、二十三歳の受難。嘘(ゆめ)と希望と愛の物語。東京の片隅で、それなりに普通に生きてきた私。しかし、その”普通”であることは、こんなにも残酷に、そしてあっさりと崩壊してしまった……。結婚相手でさえ、ネットの出会い系サイトで探すことができ、家族や友人などの親戚関係さえ、サービスとして購入できるこの時代、物事をあまり考えず、感情を波立たせず…というように”人並み”に生きてきた一人の女性が、いろいろな出会いと経験を通して、生まれ変わっていくという現代版「女の一生」ー(後略)ー

なんか思ったより内容がイマイチ伝わらないかもしれない。

あらすじとは言わないまでも、補足的に、そして僕なりに、『リップヴァンウィンクルの花嫁』がどんな映画なのかを書きだしてみたいと思います。

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『リップヴァンウィンクルの花嫁』の前半で重ねて見せられるのは虚構と嘘と取り繕い、そしてそれらが招く崩壊

七海のなんてことない人生で取り繕ってきたいろいろは、いとも簡単にボロが出て、化けの皮が剥がれ、虚構の城はあっという間に崩れていきます。

「ボロが出る」とか、「化けの皮」とか「虚構の城」とか言うといかにも悪意があって人をだましてきたみたいに聞こえるかもしれないけれど、七海が取り繕ってきたものなんて、誰でも少なからず抱えているものです。

高校の非常勤講師だけでは食べていけず、通ってる学校から少し離れたコンビニでバイトしてること(変装のつもりで伊達メガネをかけるのも、七海が普段当たり前にしている取り繕いや嘘の性質を表している)。

オンラインで学校に通えない子に家庭教師をしているが、生徒に一次関数とか二次関数って将来何に使うのかと聞かれて答えられない。生徒の「先生なのに分かんないの?」がなんか心に痛い。

相手をネットで見つけて結婚したことに対し、SNSでは「ネットで買い物するみたいに、あっさりと、ワンクリックで」と感傷的につぶやくが、そんなつぶやきをしていることやアカウントは結婚相手には秘密にしてる。

非常勤講師の仕事がうまくいかず、実質クビになったのに結婚相手には「家事との両立は難しいと思ったから」などと理由を付けて、自分で辞めたように装ってしまう。

親戚の数が合わないので親族を代行業者に頼んで、役者を使う(「披露宴の出席者って案外ニセモノだったりするんだよ」ってやはりSNSで教えてもらう)

こういう、罪がないとは言えないけれど、決して悪意があるわけでもない嘘や取り繕いがことごとく裏目に出て崩壊していく様は見てて痛々しいです。

誰でも少なからず取り繕って生きてるのだから、みんなそれなりに痛々しく感じるはず。

強い人は開き直って、嘘やはったりを本当にしていったり、そんなもんだろって言うかもしれないし、気にもしなかったりするでしょう。でもそういう些細なごまかしや嘘に罪悪感を持つ人は、きっとそこにつけこまれる。

最初から最後までつけこまれるだけつけこまれ放題なのが七海なのです。

虚構、ごまかし、嘘、ニセモノが作る現実感

とにかくこの映画には、虚構、ごまかし、嘘、ニセモノが横行してる。

それはリアルな姿なのか?現実を映したものなのか?と問われると、多分そうじゃない、けど、自分以外の漠然とした世の中ではこんなことがありふれてるんだろうなということを感じる。

現実じゃないものを執拗に書きだすことで、現実味を作ってるという感じがする。

自分は披露宴にニセモノの親族を呼んだりすることはないし、今までそんな空気のする披露宴に参加したこともないけれど、この世のどこかでは確かにありふれているのだろうなと思わせるリアルがある。

どんな仕掛けになっているのかと言うと、例えば、こんなシーンがあります。

後に七海自身が結婚式の列席者代行のバイトをするのです。

ある家族を装い、虚構の家族として他人の式に参加する。そこで、新郎が実は妻子持ちで、重婚なんだってなんて会話になる。これもやはり虚構だし、取り繕いの末期みたいな感じ、それを外から(七海から)見ると信じられないのだけど、七海たちがやってることだって一般(視聴者)からすれば信じられないわけです。

けど引き比べてみると、七海たちの雇われて役者として式に参加してるなんて可愛いものに思える。仕事だし。さらにさらに、「ああ、みんな自分のことは棚に上げて人のごまかしや嘘を見て見ぬふりしたりゴシップにしてスルーしてるとこあるよな」なんて気分になる。

この気分こそがリアルなのだと思う。

非現実を見て、現実に思い至る瞬間です。

これ大事なワードだから頭の片隅に置いておいてほしい。

リアルな人物が巻き込まれる虚構の渦

披露宴に出席する人のほとんどがニセモノだってことには嘘だろ?って思いつつも、七海の弱さとか取り繕い方は妙にリアルです。

言うなれば、七海が後にニセモノとして式に参加するのも、視聴者から見れば弱さにつけこまれた結果だと分かる。そういう類の弱さは理解できる。

人生では、プライドが邪魔してホントのことを言えなかったり、説明が面倒でそのままにしておいたり、なりふりかまっていられなかったり、そういうことってよくあると思う。

嘘ついたのか、だましたのかって言われたら違う!と思うけど、相手にとってそう感じるのも仕方ないということは分かる、みたいなこと。

この些細なリアルの延長に、騙すこと、ニセモノであることを受け入れ、むしろ率先して引き受けて、あっけらかんと生きている人もいるということは、いい大人になれば分かってくる。

何ならそういう覚悟がプロとアマチュアの差のように感じることさえある。

あ、やばい。これは長くなってしまう。今さらなんだよって思うかもしれないけどこの記事長くなります笑

これから『貸間あり』の話になりますからね。

とにかく、『リップヴァンウィンクルの花嫁』はそういう話です。

あらゆるごまかし、虚構、取り繕い、本当はそうだったの?本当はそうなってたの?の繰り返しが作る混沌が、まるで現実のように見える。

けど決して現実でもないことは分かる、っていう、その狭間の、ほっそい境界線上で、ふらふらとバランスを崩しては立て直し、作り物の美と、化けの皮が剥がれて見える美について見るともなく見てしまう、実に散文的な映画です。

散文的な映画?

調子に乗って散文的な映画とか言ってしまったけど、このブログでは最近「散文」についても少し考えたので、よろしければこちらもどうぞ。

これを読むと多分この記事が15%増ぐらいで面白く感じると思う。

散文の初歩・散文の基礎とはなにか

散文の精神とは/どんなことがあってもめげずに生き抜く精神

 

散文という言葉を出したのは、 井伏君の「貸間あり」 から以下の文を引用して、『貸間あり』そのものの話に繋げたいからです

井伏君の初期作品には、極く普通の意味で抒情詩の味わいを持ったものが多かったが、恐らく、彼は、人知れぬ工夫に工夫を重ねて、「貸間あり」の薄汚い世界を得るに至った。彼の工夫は、抒情詩との馴れ合いを断って、散文の純粋性を得ようとする工夫だったに相違ない。小林秀雄『考えるヒント』p34

僕はこのあたりで、『リップヴァンウィンクルの花嫁』とのリンクを感じたのです。

『貸間あり』の薄汚い世界と、七海が見た薄汚い世界とが、妙にリンクしている気がする。

散文の純粋性とは

散文の純粋性ってなんだよって気持ちになりはしないでしょうか。

さっき『リップヴァンウィンクルの花嫁』を指して散文的な映画と書いたけれど、この映画が見せるところの、「執拗に、無感情に、現実的じゃない現実をポンと置くことを繰り返して、内的な現実を、見る人の内に作り出す手法」というようなものがそれだと思うのです(この、現実をポンポンとテンポよく置いていくのが、七海を利用し続けるアムロさん(綾野剛)の役割なんだろう)。

散文って、目の前を流れていく雑多でアトランダムな現実をどれだけ淡々と置いていけるか、みたいなことだと僕は思っています。

散文の基礎ってなんだろう、散文の精神ってなんだろう?と考えて、なんだかこんなところに行きつきました。合ってるか分かんないけどね。

もっかい貼っておきますね。

散文の初歩・散文の基礎とはなにか

散文の精神とは/どんなことがあってもめげずに生き抜く精神

嘘と虚構であふれる『貸間あり』

『貸間あり』も、嘘とか虚構で溢れています。登場人物のことごとくが「本人じゃない」という何か、「本当とは違う」という何かを背負ってる。

まず、ユミ子さんが貸間を求めるところから物語は始まるけれど、部屋を斡旋してくれた宇山さんという人は、ついでに夜副業で易者でもやればって感じでユミ子さんに勧めます。

ユミ子さんは易者なんてやったことないからマジかって思うんだけど、周りの人に色々お膳立てされちゃって、本読んだりなんだりしてとりあえず形から入ろうとしちゃう。

ちょっと七海とかぶります。

『貸間あり』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』は全然違う話です。展開も結末も全然違います。だけどBGMが似てるというか、底に流れる気配が一緒な感じがするのです。

ちょっと、他の登場人物(同じ青柳アパート屋敷に住む近所の住人たち)の「歪」な面も紹介しますね。

貸間札を娯楽で下げてる洋さん

貸間札を娯楽で下げてる洋さん。ちょっと意味が分からないだろうから意味が分かりそうなポイントを引用します。

ユミ子はこの男に、部屋を貸す意思のないことを確かめることができた。さっきの宇山の口うらでもうそれはわかっていた筈である。洋さんという人は、貸間の権利金を仮に見積もってみて楽しんでいるのである。現金一万二千円を、自分が持っているのと同じであるということを、貸間さがしに来る人たちを相手に自分で確かめているわけであろう。

虚構の貸間札です。

お千代さんの嘘でユミ子さんはどこぞの屋敷のお嬢さんに

お千代さんも複雑で哀れな人です。

お千代さんには婚約者がいるが、婚約者は結婚資金稼ぎのために大阪に出て、お千代さんを待たせている。

相手はお千代さんのためにお金を貯めたいと思っているが、お千代さんも相手に惨めな思いをさせないため、それなりの花嫁支度が必要だと思ってるので、東京でお金を貯めようとする。

お千代さんは本当のところ、東京で愛人業とでも言うのか、そういう風に生きてたんだけど、いざ結婚という場面になって、地元の風習が仇になる。

東京のどこかに奉公した娘は、本当に奉公してたことを証明するため、お屋敷の奥さんか御嬢さんを故郷に案内することになってる(なんだこの設定はと思う。でもそれだけ、「歪」を重ねたかったのだろうと思う。工夫に工夫を重ね、薄汚い現実をという小林秀雄の文が思い出される)。

ところが愛人業で過ごしていたお千代さんは、実際には奉公先の奥さんもお譲さんもいない。

ユミ子さんがそのお嬢さんの役回りを引き受けることになる。ニセモノ。

五郎さんの仕事

五郎さんという人は論文や英仏文の翻訳、投書小説、論説の代行執筆をすると宣伝してる。言うなればニセモノを引き受けますということです。

そのうち模擬試験を代わりに受けてくれなんて依頼を受けちゃって、最後には体よく騙された形で本番の替え玉受験をする羽目になる。

本試験だと気付いて試験は受けなかったが、違約金や、依頼者が遠征にかけた費用の負債を負った形となる。伝手をつたって旅館の番頭の仕事に就くという約束で返済のための金を前借する。

そんなわけで五郎さんがアパートに帰ってこなくなり、部屋が一つ空く、というのが物語の終わり方。

群像劇と言って良いのだろうけど、それほど人と人が交わり合って複雑なストーリーが展開していくという感じもなく、ひたすらポンポンと、胡散臭い現実を並べていくと言った物語でした。

貸間札の裏に、いろいろあるよねという感じでしょうか。

井伏鱒二『貸間あり』のラスト

もう日は落ちていたが、夕焼け雲が出て空が派手な色に見えていた。洋さんは踏み台を持って出て軒の下に据え、その上に這い上がって貸間札を軒の雨樋に吊るした

ラストはこんな文章で終わります。

小林秀雄は『貸間あり』に描写がないと語っていたのですが、この最後になって、ようやく描写らしい描写というか、映像的な風景の描写がとってつけたようにあって、なんだかかえって嘘くさいなあって思う。

だけどこの嘘くささこそが井伏鱒二が取った工夫の一つでもあるんだろうなとも感じるのです。

小説の描写について

ここで、小林秀雄の 井伏君の「貸間あり」という論考から再び三度、少し長いけど引用していきたいと思います。

詩を離れて身軽になったと思い込んだ近代小説は、実は、いつの間にか、現実という重い石を引摺っていた。腐れ縁とはみなそういうものだろう。作品の魅力も力も真実も、すべて現実というモデルに背負ってもらって、小説は大成功を収めて来た。

批評家達も、その方が楽だから、いつもモデルの側に立ってものを言って来た。実社会の分析が足りない、心理過程の描き方が不自然である、このような恋愛が今時何処で行われていると思うのか、そんな文句ばかり付けているうちに、小説読者の方でもじれったくなり、モデルを直に見せろと言いだす事になった。ここに、視聴覚芸術の攻撃にさらされた活字芸術という観察が生まれる。小林秀雄『考えるヒント』p33-p34

写実的な表現、執拗な描写の流行り。

なるほど、作の主題は、作者の現実観察に基づくものであろうが、現実の薄汚い貸間や間借人が、薄汚いままに美しいとも真実とも呼んで差支えないある力を得て来るのは、ひたすら文章の構造による。

これは、小説作法のいろはなどと言って片付けられるような事柄ではあるまい。むしろ、そこだけに作家の創造が行われる密室がある事を思うべきである。同上p34

「作家の創造が行われる密室」って良い言葉ですねなんか。

この作は、勿論、実世間をモデルとして描かれたのだが、作者の密室で文が整えられ、作の形が完了すると、このモデルとの関係が、言わば逆の相を呈する。

作品の無形の形が直覚されるところでは、むしろ実世間の方が作品をモデルとしていると言った方が良い。同上p35

 

ここ、さらっと読むと分かりにくいのですが、『リップヴァンウィンクルの花嫁』で感じた、「非現実を見て現実に思い至る」という感覚に似てると思います。

というか、『リップヴァンウィンクルの花嫁』を見たときの感覚と照らし合わせると、なんだか妙に納得できる気がするのです。

確かにこの逆転現象を感じた。現実と虚構の、真実と贋物の逆転。

この虚構を追いつくように、現実は本当に機能してるだろうか?というような思考になる。

現実が掴みどころのないもののように感じられて、なんだか嘘や虚構やはったりやインチキっていう薄汚いそれらの人為が、とてもしっかりとしたもののように感じられる。

過去に以下のような記事も書いたのですが、なんだかここにきてリンクしました。

 

創作物が現実を豊かにする/人為は美しい

記事内で

「人為」と書いて「偽」と読むのだから、人のやることなすことすべて嘘っぱちなんだろうけど、だからこそ現実よりも美しいことがある。

なんて書いてるんだけど、この記事で言いたいことも多分そんな感じ。ちなみに「人為と書いて偽と読む」ってのは、『偽物語』っていうライトノベルからの受け売りです。

 

嘘くさくて薄汚い非現実を見て美しい現実を見つけるという体験が、『貸間あり』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』を見ることでできました。

『貸間あり』はすぐに読めるかどうか分からないけれど、『リップヴァンウィンクルの花嫁』はプライムビデオで配信されているので登録してる方はぜひ次のお休みにでも見てみてほしい。

 

 

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