うつ病ではなく「致死的退屈症」/ミヒャエル・エンデは人に優しい。

ミヒャエル・エンデの『モモ』の中で「致死的退屈症」という言葉が出てきます。

灰色の男たちに時間を支配されてしまうとやがてかかる、死に至る病。

症状は、「うつ病」に酷似していると言われています。

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致死性退屈症の症状

致死性退屈症の症状が作中で説明されているので少し長いけど引用します。

「はじめのうちは気のつかないていどだが、ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。

なにについても関心がなくなり、なにをしてもおもしろくない。この無気力はそのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなってゆく。

日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなる。気分はますますゆううつになり、心のなかはますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世のなかにたいしても、不満がつのってくる。

そのうちにこういう感情さえなくなって、およそなにも感じなくなってしまう。

なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世のなかはすっかりとおのいてしまって、じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、よろこぶことも悲しむこともできなくなり、笑うことも泣くこともわすれてしまう。

そうなると心のなかはひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない。ここまでくると、もう病気はなおる見こむがない。あとにもどることはできないのだよ。

うつろな灰色の顔をしてせかせか動きまわるばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。

そう、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。

この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ。」『モモ』(岩波少年文庫)360p

退屈なんだ

「退屈症」という表現がえらくマイルドだなと思った人はいますか。

致死的と聞いても後ろに退屈がついてるから、『モモ』を読む大人はこの病気を本気で怖がったりしない、かもしれません。

だけど、この症状はうつ病の(たとえ一面的なものだとしても)症状と酷似していると言えるのではないでしょうか。

いやそのものだと言っても良い。退屈で死に至ると言えば何人かの人は笑うかもしれないけれど、人はうつ病で死にます。

僕もかつてすごくふさぎ込んだことがあって、そのときは『モモ』に出てくる「致死的退屈症」という言葉はすっかり忘れていたけど、あのときの精神に今「退屈」という名前を付けると、すごくしっくりくる気がします。

退屈と言えばなんだそんなことと思われるかもしれないけど、無気力になって、死にたいと言えばすこし強すぎるけど、生きてなくても良いかなという気分にはなりました。

だから「致死的退屈症」はマイルドな表現をしようとして選んだ「退屈」なのではなく、死に至る原因がストレートに「退屈」にあると言っている。死因が「退屈」だと言っていると僕は思います。

ミヒャエル・エンデは優しい

刺激の少ない言葉を選び、ファンタジーの世界を守ろうとしたのではないと僕は思います。

でも、それでもミヒャエル・エンデはやっぱり優しい。

うつ病の状態に陥る原因がその人の弱さにあるのではないと言っているように見えるからです。

うつで会社や学校にいけないとか、仕事ができないとか、人と会うのが嫌だとか、それこそ何一つやる気がでないで死んだように生きているとか、体調を崩すとか、うつ病の症状は色々あると思うけれど、ややもするとそれは、本人の「心の弱さ」に起因すると思う人がいます。

もしくは、それこそもっとマイルドに、うつ病になる人は完璧主義だったり、気を遣いすぎる性格なことが多いんですよ。もっと楽にしましょう、のような、一見優しい解釈もあります。

言い方は色々あるけれど、いずれにせよ本人の気質の問題で、本人の問題だと言っているのは変わりません。

それは穿った見方をすると、あなたは違う、異常だ、適応していない、劣っていると言われているのと一緒だと思う。

でも「退屈」はどうでしょう。

退屈はどうしようもない。退屈なんだから仕方ない。それは嗜好の問題もあるけれど、ほとんどは環境の問題だ。

退屈を感じる人に、お前は弱いからそんな風に考えるんだよ!とか、退屈でも良いんだよ、そんな自分を認めてあげましょう、とか言って退屈が解消されますか。

弱いから退屈になるのでしょうか。

癒しの空間の気味悪さ

不幸なのでもなく、弱いのでもなく、ましてや異常なのでもなく、退屈なのだと思うと少し楽になるかもしれません。

弱かったり劣ったりしているわけではなく、自分は今、ただ退屈なのだ。

でもなんとなく、退屈そうにしていることが許されない空気が社会にはあると思いませんか。

退屈かもしれないものを「心の傷」と見做して支援しようというものに気味悪さを感じます。

その弱さを認め、サポートすることで社会復帰を応援するみたいなの、個人的には良い気持ちにはなりません。

やりたくもないゲームやらされて、「あーあなたにはちょっと難しかったかもしれませんね。イージーモードで再チャレンジしてみませんか?」って言われたら気分悪いでしょう。

それで、ほら全然怖くないでしょう?やればできるでしょう?って言われても「はあ…そうですね」って。

もちろん、本当に心に傷を負ってふさぎ込んでいる人もいると思うし、自信が全然なくて動けないという人もいるだろうから一概には言えないけど、僕は「致死的退屈症」という言葉を見て、症状を見たとき、「自分がたまにふさぎ込むのはこれが原因だったかもしれない」と思ったんです。

退屈だったんだから、欲しかったのは癒しより刺激でした。

田舎を心を癒す場所として使おうとする人もいるけど、僕は田舎を刺激的な場所にしたい。

いつか人々の退屈をぶっとばしたい。

うわ最後急になんだよって思われるかもしれませんが、これはこれでも「まちづくり」がテーマのブログなので。

うつ病ではなく「致死的退屈症」/ミヒャエル・エンデは人に優しい。(完)

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