好きな人が死ぬってどういうことだろう/『いちご同盟』、『世界の中心で愛を叫ぶ』、『君の膵臓を食べたい』を読み比べ

「難病モノ」と言うのだろうか、病に冒され余命いくばくもない少女と少年の恋を描く小説作品は王道なストーリーの一つで、各年代ごとに代表作と言うべきものがあります。

90年代では『いちご同盟』

00年代では『世界の中心で愛を叫ぶ』

10年代では『君の膵臓を食べたい』

がそうだと僕は思う。基準は、読んだことはなくてもたいていの人はタイトルを知っていること、ドラマ化や映画化がされていること。

僕が多感な時期(つまり作中人物と近い年齢の時期)に読んだのは『世界の中心で愛を叫ぶ』であって、だからということもあると思うけど、3作の中ではこれが一番好きです。再放送も多かったドラマは4周ほど観たんじゃないか。

さて、ここで挙げた三つの作品には共通点と相違点があります。

共通点はストーリーとして踏まえるべき、この要素が無ければこの手の話しは成り立たないというところでありますが、相違点を比べてみれば、その時代を反映しているようで面白い、と思ったのでこの記事を書くことにしました。

また、こういうストーリーが色褪せないことそれ自体についても考えました。何をというわけでもないけれど。

つまり、これらのストーリーに共通するテーマである「好きな人が死ぬってどういうことなんだろう?」という問いは、何年経っても、これだけ文明が発達してもなお語られ続ける、そこのことについて。

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『いちご同盟』、『世界の中心で愛を叫ぶ』、『君の膵臓をたべたい』の共通点

では、上記の3作に見られる共通点を挙げてみましょう。

・難病に冒されている少女は死ぬ

少女は死ななければなりません。闘病中の少女というキャラクターを見れば、人は当然「死ぬべきだ」と思って読みます。

嫌な言い方ですが、死ぬという前提に期待できるからこそ、それまでの文章が張りつめ、恋に落ちる過程や何気ない風景が悲劇として成り立つ。

そしてこの手の話しは当然、悲劇が読みたいからこそ読むので、言葉にすると最悪ですが、誰もが「少女は死ぬべきだ」と考えています。

・未成年の話である

人の死を巡る話はたくさんあるけれど、ここで挙げた3作は、最愛の人が病気で亡くなるという重い運命を背負うことになるのは思春期真っただ中の少年です。

その意味は何なのかというと、主人公はあくまで死ぬことになる少女ではなく、未来がある少年だということ。悲劇を背負った少年がどのように成長するのか、どのように世界を見ることになるのか、そして、「好きな人が死ぬ」という世界が滅亡することにも匹敵するショックとどう折り合いをつけるかという話なのです。

・少女と少年は恋に落ちる

死ぬことが決まっていることと同じくらい、少女と出会った少年は恋に落ちます。恋に落ちるというどうしようもない理不尽と、死の運命という理不尽がコントラストを作る構造になります。同じ理不尽に見舞われながら、一方は死に、一方は生きるという残酷があるのです。

また、この点については言及しようかどうか迷ったけれど、病に冒される少女はたいてい美少女です。そんなん言ったらたいていのドラマは美男美女という設定だろという話になるので迷ったのですが、本当に共通点として挙げたいのは、いずれも「好きになる具体的な理由は特にない」というところなのです。ほぼ一目ぼれみたいな感じでいつの間にか好きになってる。

その何となくいつの間にか惹かれているという状況を説明するために、少女の美貌は必須要素となっている。

・キラーフレーズと言うべきものがある。

『いちご同盟』→「私と一緒に心中しない?」

『世界の中心で愛を叫ぶ』→「助けてください!」

『君の膵臓をたべたい』→「君の膵臓を食べたい」

多分難病モノというか、闘病の末、恋人や伴侶が死んでしまうという話はいくらでもあるのだけど、その話が流行るには、ストーリーだけでなく、印象に残るフレーズがあったという点も大きいのだろうと思います。

流行ったからこそ印象に残るフレーズが抽出されたという見方もできると思うけれど、「君の膵臓をたべたい」なんかは、「君の膵臓をたべたい」というフレーズの意味がはっきり謎として設定してあって、ストーリーが進むにしたがって二人の間で特別な意味を持つようになるという仕掛けがされている点には注目が必要だと思います。

次は相違点を比べるよ

ある程度展開と設定が決まっている物語を比べて、じゃあ今度はどんなところが違うだろう、ということを考えていきたいと思います。

とは言え、そもそも違う作品なのだから、相違点を比べ始めるととても長くなってしまいますので、特に気になる点を少しだけピックアップしたいと思います。

共通点を踏まえながら、時代の変化に伴って、小説の表現にどんな変化があるか。

考えてみると少し面白そうだと思いませんか。

書き出しを比べてみよう

『いちご同盟』の書き出し

音楽室でラベルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を弾いていると、ドアが乱暴に開いて、背の高い男子生徒が入ってきた。

『世界の中心で愛を叫ぶ』の書き出し

朝、目が覚めると泣いていた。いつものことだ。悲しいのかどうかさえ、もうわからない。涙と一緒に、感情はどこかへ流れていった。しばらく布団のなかでぼんやりしていると、母がやって来て、「そろそろ起きなさい」と言った。

『君の膵臓をたべたい』の書き出し

クラスメイトであった山内桜良の葬儀は、生前の彼女にはまるで似つかわしくない曇天の日にとり行われた。

直接的になる表現

時代を経るに従って、書き出しが直接的になっているのが分かると思います。

もちろん、作者が違うのだから、これは時代の変化ではなく、たまたまそれぞれの作者の書き出し方がこうだったというだけの話ではあります。

でも今回のように、ジャンルを限定し、時代を代表する作品を並べてみることに意味がないとは思いません。少なからず時代の流れが反映された表現になっているはずだし、だからこそこの時代に受け入れられたのではないか、と僕は思うのです。

さて、この書き出しの何が直接的なのかと言うと、「少女が死ぬ」ということがです。

『いちご同盟』においては『亡き王女のためのパヴァーヌ』という曲名が暗示的ではありますが、まだこれだけではこの後の運命というか結末について知るには不十分です。

そして、この作品では回想という形式を取っていないので、少女と出会うまでと、少女が死ぬまでの流れは一方通行で、ヒロインが登場するまでに時間がかかり、作中人物が少女が死ぬだろうということを仄めかしながらも、確定事項ではないまま話が進みます。

『世界の中心で愛を叫ぶ』では状況から悲劇の後だということを十分に察することができます。次のページでは「アキの母親は、遺骨の入った小さな壺を膝に抱いている」という文章があって、これはアキという人物のものだぞということを察することができるようになっている。つまりこれは、そういう話なのだということが分かる。

『君の膵臓をたべたい』ではもうヒロインの名前と葬儀という言葉が出ているので、誰が読んでも山内桜良は死んだのだということが分かります。

つまり、「ヒロインが死んだ、死んでいる」ということを読者が知るまでの時間が、時代を経るに従って短くなっているのです。

共通点のところで書きましたが、この手の話しにおいてヒロインが死ぬことが決まりきったことです。語弊のある言い方だけど、読者はヒロインが死ぬことを期待して物語を読み進める。死ぬか生きるかというサスペンスには誰も期待はしていない。

こう見ると、時代を経るに従って、期待への距離はどんどん縮まっているように思います。期待へのアクセスは簡便になり、期待している情報へは早く辿りつくべきだという空気がある。

闘病して死を迎える少女と少年の恋物語とその悲劇が見たいという欲求をとにかくはっきりと提示する。

この傾向は最近になって特にメディアで感じるところです。

どんな感情を抱くための作品なのか、感動できるのかどうか、驚けるのかどうかは先に決まっていて、どんな作品もそれを確認するために見に行くという流れが、ここ最近は特に強いのではないでしょうか。

感動する作品という口コミがあり、確実に感動をすることを知り、感動を買いに行く。

そこに予想外は期待しておらず、アクセスしようとしたものに確実にたどり着けるかどうかが価値になる。

「ポスト真実」という言葉が話題に上ることも多くなったけど、政治だけでなく、もっと個人の生活に基づいた「消費」の場面でも、このような現象を見ることができる、ということだと思います。

ヒロインは何故死ぬのかを比べる

ヒロインは何故死ぬのか。

それは、これらがそういう物語だからです。

ヒロインは死ぬことになっていて、主人公は悲しい経験をすることになっている。

これが、僕らが期待している物語。

なぜヒロインが死ぬのかを比べると、僕らはどんどん見たいものを見たいように見るということ、欲求へのアクセスが直接的になっているということがよりはっきりすると思います。

『いちご同盟』→悪性腫瘍

『いちご同盟』のヒロインである上原直美は、この3作の中ではもっともリアルな病人に見えます。

主人公である良一と出会った時点で、片足が膝の上から切断されていて、その後の脇のリンパ節に転移した腫瘍のための手術後では片胸を失っています。

その後、肺炎を起こし呼吸困難になってしまったが故に気道を切開したせいで、声を発することもできなくなってしまいました。

現実に目にするとすれば、最も痛々しい外見となって亡くなっているはずです。

『世界の中心で愛を叫ぶ』→白血病

『世界の中心で愛を叫ぶ』のヒロインである広瀬亜紀が冒される病は白血病です。

顔が痩せていく、強い吐き気、薬の副作用による頭髪の脱落、出血斑、口内炎、手足の浮腫みなどの描写があり、闘病の様子が描かれています。

おそらく、白血病の患者の中で最も悲惨な死にざまというわけではないと思いますが、それでも十分悲惨な病人の姿をしています。

考えたいのは、小説ではあまり深くは触れられていないけれど、広瀬亜紀が死を迎えることになった原因は、病そのものよりも、その状態での無理な行動(朔太郎が亜紀を病室から連れ出し、二人でオーストラリアに行こうとする)にあるのではないかというところ。

こんな無茶をせず、地道に治療に耐え、新薬の開発や骨髄移植の機会を待てば、広瀬亜紀はもう少し生きられるか、治るという運命もあったかもしれない。

ところがそうしない。この点は物語的であり、現実的に生にしがみ付こうとすればおそらく行わないであろう行動を経て劇的に死んだというのは、物語の都合であると思います。

つまり、広瀬亜紀は物語内で死ぬことになっていたから死んだ。

『君の膵臓をたべたい』→腎臓の病気

『君の膵臓をたべたい』のヒロインである山内桜良は、膵臓の病気だということは分かりますが、はっきりとした病名は分かりません。

医学の進歩によって、日常生活には支障はないが、いずれ膵臓が働かなくなって死ぬことは確定している病気という設定です。

ヒロインは病人らしい外見にはなりません。死に至る病を抱えているにも関わらず明るく、主人公よりよっぽど生命力にあふれているように見える。

しかし死を迎えます。

ここには賛否両論あると思います。死に至る膵臓の病をかかえながら、食事の制限もなく、外見的な変化もなく、死を迎えるまで健康な人と同じように生活できる病気なんて想像がつきません。というかおそらく存在しないのでは。

リアリティがなく、ご都合主義と言える設定なので、受け入れられない人も多いだろうと思う。

しかし僕は、この部分こそが時代を表しているのではないかと思うのです。今回のように3作を比べると、この強引さはグラデーションを描いているように見る。

たどり着きたい情報(ヒロインが死ぬ)に辿りつくことが重要であって、そのプロセスは簡略化されていて良い。

プログラムがどんどん簡略化されて、決まりきった部分はショートカットされるのと似ているなと思います。そういう細部はお約束として受け入れた上で、全体としてどういう絵を描くかという部分が作品の見どころになるのではないか。

この書き方が正しいと言っているのではなく、必ずしもリアリティがないものはダメ、小説として稚拙というわけではないのではないか。実際に多くの人に受け入れられたのがその証拠だろう。

ただ、最初この作品を読んだとき、僕はどちらかと言うと受け入れられない側でした。「腎臓病は良いけど、どうやってヒロインを殺すんだろう?」という疑問が頭から離れなかった(良い読み方ではないかもしれません)。

爆弾が爆発するように急激に容体が変わって死ぬのか、途中から時代が飛んで闘病シーンは回想になるのか、事故的に死ぬのか。死という結末は決まっているにしろ、実際物語上で死を迎えるにはそれなりの説得力というか文脈が必要になる。どうするつもりなんだろう?と思いながら読みました。

ネタばれだけど、この作品のヒロインは通り魔に襲われて死にます。本当に無差別の通り魔のようです。

現実的に考えれば死に至る難病に冒された上、無差別の通り魔に偶然襲われるってどれほど運が悪いんだという話ですが、やはり物語として稚拙というよりは、やはり山内桜良は「死ななければならないから死んだ」という、物語的な運命を背負わされたヒロインなのだという印象を受けました。

好きな人が死ぬってどういうことだろう?

ここまでをまとめてみると、まず、物語内のヒロインは死ぬことになっている、そして、死ぬ運命に対する合理的な説得力は時代を経るに従って重要度を失って、とにかく死ぬ、とにかく悲しいという結果を僕らはとにかく受け取ることになる、という変化がある。

『君の膵臓をたべたい』では特にそれが顕著なようだけど、死という運命に対する説明の足りなさは文章として足りないというよりは、不必要だからこそ故意に省いているという見方ができそうだ、ということです。

「とにかく死ぬ」という不条理を潔くぶつけているから、かえって不自然さを飲みこむしかない構造になっている。

ただそれらは僕らの人生や運命の不条理を描いているのではなく、物語内の不条理、つまりエンターテインメントとしての不条理なのだと思う。

どれだけひいき目に見ても納得の行く描写ではないし、現実的ではないけれど、物語の都合で死ぬという運命はこれほど残酷なのだということを『君の膵臓をたべたい』で感じて、一種の鮮やかさを感じました。架空の物語を楽しむという経験ができたように思う。

さて、最後に考えたいのが、「好きな人が死ぬってどういうことだろう?」という問題です。

これらの物語は、死ぬことそのものは大きな問題ではありません。人が死ぬと悲しいというのはどうしようもない真実で、そもそも理屈を必要としない。

ただ、これだけ時代が変わっても、人の死を乗り越えるのは難しい。どうして僕らはいつまでもこんなに悲しい思いをするんだろう。

いやむしろ、僕らはより簡単に泣くようになったのかもしれない。そういうことを考えたい。

コミュニケーション手段の断絶に耐えられなくなった僕ら

時代の変化に伴って、大きく変わるものの一つに、「通信手段」があると思います。

昔は彼女の実家に電話かけて、お父さんが出たら最悪だったみたいな話を聞くことがあると思いますが、僕が高校の時点でももうそんな時代は過ぎ去っていました。

小さいころから携帯電話を持つようになって、確実に、直接コンタクトを取れるようになって、また、電話だけでなく通信アプリが増えたことでメール機能、チャット機能が充実しました。

あと最近って「生配信」みたいな動画も増えてるような気がするんだけど、こうしてどんどん、発信者と受信者の間におこる情報のタイムラグはなくなっていくのだなと思うのです。

これ、さっき作品間の相違点のところで書いた、「アクセスしたい情報により早く直接的にアクセスできる」という話と無関係ではないと思います。

何が言いたいかというと、時代を経るにしたがって、好きな人と通信することはどんどん簡単になったということ。壁や障害がなくなって、繋がっている状態が普通になった。

僕らにとって死がいつまでも絶対的に悲しいのは、「通信手段」がなくなるからなのではないか、と僕は思います。

どれだけ文明が発達しても、伝えるべき相手が無になれば、伝える手段もなにもない。

自分が生きて、共有したいことを伝える相手がおらず、伝えたいことを伝えるべき相手がおらず、伝える手段がなくなってしまう。

伝えることはこんなにあって、伝える術もこんなにあるのに、だからこそ、伝えるべきことを伝えたい相手がいないことがとても悲しい。

この辛さ、コミュニケーションの絶対的な終わりに、もしかしたら、通信、交流が簡単になっていけばいくほど、耐えられなくなってしまうのではないか。

別れに合理的な説明がいらなくなるほど、今まで話せていた人、会えていた人とある日突然あえなくなることが、辛くて辛くてしょうがないのではないか。

丁度、携帯電話を持った頃から圏外の場所を不便に感じるようになって、電波のエリアが広がり携帯が使える範囲が広がってからは相手のデバイスに電源が入ってないだけで心配するようになったりするように、僕らは繋がっているのが当たり前の状況に慣れ過ぎて、突然の断絶に耐えられなくなる。

『君の膵臓をたべたい』の山内桜良との別れは、そういう意味で、突然、予期せず電波が途絶えるようなものでなくてはならなかったのではないか。

そしてこの作品では「君の膵臓を食べたい」というメッセージが山内桜良に届いただろうか?という点が一つのクライマックスになっています。最後に伝えたいことを伝えられたという部分で、主人公の感情が爆発する。伝える相手に伝えたいことが伝わったということは、尊いことだ。

作中の時間設定は今現在というわけではなさそうですが、この時代に受け入れられた背景には、いま現在の感覚とマッチするところがあったのではないかと思うのです。

好きな人が死ぬってどういうことだろう/『いちご同盟』、『世界の中心で愛を叫ぶ』、『君の膵臓を食べたい』を読み比べ(完)

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