ここではないどこかへ願望と、人生2週目強くてニューゲーム感覚

発想と行動を記録する

近代とは、世界中のひとびとがいやおうなくさまざまな思想に巻き込まれながら、現在の自分の状況について考え込まざるを得ないようになった時代であった。

それ以前は、宗教や身分や習慣がひとびとの心を占めていて、生活もそれに従っていればよかったのだから、一人ひとりの「思想」など、いわばどうでもよかった。

それが近代になって、経済的な意味でも政治的な意味でも、自然や社会についての知識が必要とされるようになり、学校教育がなされて、一人ひとりがそうした教養のもとで思考することが近代社会を構成する要件とされるようになった。

そして、人間、社会、世界、宇宙についての多様な思考が、日々の生き方を支えるため、あるいは、場合によっては、逆にそれから眼をそらさせるために、世界中に発信されてきた。(『現代思想史入門』 p18)

それにしてもほんとに……わたしったら――わたしたちったら、なんて不思議な時代に暮らしてるんだろう! 

子供のころは、まさか自分がこんな世の中で生きるなんて夢にも思わなかった――そうだ、あのころは、なにもかもが佃島だけで完結してたんだ。小学校も、遊び場も、食事も、親友も、初恋も、なにもかもが。

それがなんとなく嫌で、もっと広い何かを夢見てて、そうしてわたしはその場所を離れたはずだったのに――。

外の世界? 広い世界?

たしかにそれはあったけど。

でも結局わたしはわたしだったし。(『tokyo404』 p206)

グローバル社会、ともわざわざ言われなくなった時代だと思う。

世界規模で物事が考えられるのが当たり前になって、「地球」という本来果てしない規模のものが一人ひとりの頭の中に、もしくは手元のデバイスにすっぽり収まるようになって、時代は変わりました。

誰もが、自分という存在の「なんてことなさ」を自覚する時代、いや、自覚するまでもなく、なんてことないという前提を自然に受け入れているような時代。

引用した二つの文章を無理やり繋げて恣意的に解釈すれば、近代に入って一人ひとりの「思想」というものが生まれ、現代になると「個」というものが「思想」を覆うようになった、という流れが感じられる。

これは子どもから大人になるに従ってアイデンティティが確立されていく姿と重なる、とか言い出すと訳分からなくなるかもだけど、社会が成熟する姿というのは、人間が成熟する姿と似ているように思う。

成熟し、アイデンティティが確立すると、「ある環境の中の自分」という図式から、「自分が目いっぱいに感じられる限界の世界」という図式に転換し、「世界が広いのは知っているけど、結局私はどこにいても私」という一種の達観を生み出すことになる。

さて、だからなんだという話です。

この記事で考えたいのは、引用した文にも書いてあった、「私たちったら、なんて不思議な時代に暮らしているんだろう!」ということです。

なんか分かんないけどこの辺りをよく考えることで、ざっくりとした現代人の感覚とか行動原理的なものの輪郭が見えるんじゃないかと思ってる。

Contents

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現代人の不思議なところ

現代人は不思議だと思います。それは現代が不思議だからだと思う。

あ、「現代人」と聞いて思い浮かべるのは「若者」かもしれないけど、「若者」と呼ぶのはちょっと考え物です。

僕は今28歳で、取り立てて若くもないし、でもおっさんと呼ばれるのは若干抵抗がある微妙な年ごろ。

それに何歳が若いかというのは相対的なところや、環境による違いもあると思うから、ある人が見ればお前も若いだろうになるだろうし、ある人から見ればおっさんが何か言ってるになるからどうすれば良いか分からないパニック。

だからここではざっくり「現代人」を主語にするけど、現代人は不思議だなと思う。

すごく謙虚で腰が低い印象の人が多いなと思いきや、自信とかプライドがないワケじゃない。

志しも高いんだか低いんだか分からない。

常識が無いかと思いきや、すごく難しいことを難なく理解してたりする。

身の程知らずかと思いきや、分際をよくわきまえているようにも見える。

意見が無いかと思いきや、めちゃくちゃ主張する内容が豊かだったりする。

「いや、若い人っていつの時代もそういうもんだよ」と言われればそれまでなんだろうけど、だから若い人じゃなくて現代人の話。

近代とか現代とかって分けたときの現代の、現代に生きるざっくり今世の中の中心にいる人たちの話です。

この、冷静に見ると一人ひとりの「思想」が判断しにくい現代は、なかなか他人を決めつけることができない。今目の前にいる誰かが現代的であればあるほど、何考えてるか分からないし、次に何するか分からないっていう不思議な印象を持っているんじゃないか。

この不思議な印象を説明する概念が、「個が思想を覆い尽くす」という図式にあると思う。

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個が思想を覆い尽くす

この辺をもっと簡単に説明できたら良いんだけど。

なんというか、近代になって一人ひとりが思想を持つようになったと言っても、何だかんだどの思想に属するかという話だった気がするのです。どの宗教を信じるかみたいな。

例えば「政治思想」とか言っても、結局は自分以外が考えた、既にある概念のどこに賛成し、どこに属すかという感じだった。それが即ちそれぞれの思想だった。

だけど、個が思想を覆い尽くす状態というのは、自分の感性や嗜好がまずしっかりとあって、それに見合う何かを察知・吸収しながら、世の中から集めた断片を材料に、自分の世界を形作っていくみたいな感じだと思う。

だから僕個人的には選挙の投票率が低い年代の人がいるってのは自然なことだと思うんですよね。むしろ「政治参加に関心のない若者(若者って言っちゃった)が増えて嘆かわしい」じゃなくて、今の政治体制が時代(もしくは国)に合ってないんじゃないの?っていう可能性の判断材料なんじゃないかって。

もっと言えば「どこか一つを選ぶなんてできないよー」という悲鳴は知能や知識が未熟だからではなく(それもあるだろうけど)、現代感覚を持ってれば自然な反応なんじゃないかって思う。

思いついたから宗教にちょっと話戻るけど、そもそも宗教で考えても日本は特に節操ないですよね。

クリスマスとかハロウィンはパーティーを楽しむ一方で、お盆とかは粛々とお念仏聞いて、お墓参りしたりする。神社の参拝も好きだし、瞑想だって「毎朝取り入れてます」みたいな人増えてるでしょう。何教を信じてるか分からないし、そういうのはもっとカジュアルで良くない?みたいなのがあるでしょう。

でもこんな日本人は無宗教というかあまり信心深くなくてってのはずっと昔から半ば自嘲的に言われていたことで、自分の感性に合うものを都合よくつなぎ合わせて、自分の世界を作っていくという感じは、少なくとも現代の日本においてはフィットする感覚だろうし、この感じだと先進国はどこもそんな感じなんじゃないかなと思う。

そういや作品や人物を評価するときに「神」とか言ったりするのもなんか現代の特徴なのかもしれないですよね。みんな自分の宗教を持ってるのかも。

この、「個が思想を覆い尽くす状態」を作り出したのがグローバル社会で、それは現代人に「ここではないどこかへ」という欲望の質を変化させ、「人生にこだわり」を持つ人を作る土台になったと思う、これが現代人の核だと思う、というようなことを書いていきます。

変化するここではないどこかへ願望

まず、自分を取り巻く環境からの脱出ということでなんか現代っぽいにおいがするので、僕らが持つ「ここではないどこかへ」願望について考えようと思います。

「ここではないどこかへ」という願望は誰もが漠然と抱いたことがあるのではないでしょうか。

僕も昔こういう願望を持ったことがあったけど、その頃のことを思い出すと、ここではないどこかへ行けば、今とは全然違う自分に出会える的な、自分の人生が変わる的な思いを抱いていたことがある。

出会いが人生を変えるとか、経験が視野を広げるとか、そんなことを漠然と信じていたことがある。この記事に寄せて言えばまだ見ぬ「個」を確立しようと必死だったのかも。

だけど、どこで何を見ても、何を知っても、結局自分の感性や嗜好の核に響くかどうかでしかなくて、予想外とか想定外はあるけど、そんなときですら、これまでの自分のパターンから大きく離れることなく、自分の中にスンと収まってしまう感じがあった。

ああ結局、自分は自分を越えられないんだ。感じられる範囲のことしか感じられないし、心のどこかで期待していることや準備のあることしか見ることや知ることができない。

外部環境が与えてくれるものはごくわずかで、どこに行っても何をしても、「探している」という感覚の方が強く、「自分探し」とはよく言ったものだなと感心したことがある。

外の世界? 広い世界?

たしかにそれはあったけど。

でも結局わたしはわたしだったし。

現代は、グローバル社会と呼ばれるようになって久しく、世界中のどこの情報でも、その気になれば現実として間近に受け取って、感じることができる。

世界を広げるのは簡単で、物事を知るのも簡単だけど、自分の世界観を形作るための材料となるものや、コレクションする何かを探すのはとても難しいし時間がかかる。

「ここではないどこか」に対する漠然とした刷新感や驚きへの憧れがグローバル社会によってぶち壊されて、代わりにまだ自分に足りない何かに対する渇望や、早く探しださなきゃという焦燥感を感じる。

現代にはこういう感覚があると思う。

人生2週目感覚

RPGとかをプレイしていると、たまに強くてニューゲームみたいなシステムが搭載されているものがある。シナリオを全部クリアした状態のステータスから、もう一度シナリオをプレイできるシステムです。

強くてニューゲームじゃなくても、2週することを前提に作られているもの、いわゆる「やりこみ要素」がふんだんに用意されている設計のものがある。

なんか現代の人生って、こんなゲームの2週目みたいなところがあるんじゃないかって最近思いました。

なんか、人生のあらすじっていうか、普通にこだわりなく生きればエンディングまでまあまあ楽しめるんだけど、そのゲームを100%楽しむのは大筋とはちょっと違うところにあって、その大筋は一応ストーリーの原動力というか足掛かりではあるけど、ムキになってやるのはその他の部分、というような。

ただ用意されたシナリオをこなすだけじゃなんかもったいないよね。感覚で言えば40%くらいしか楽しめてないよね、みたいな。

これも、グローバル社会だから起こったことじゃないかな。

あらゆる知識や情報が共有されるようになって、自分と違う人生を送る、自分とは縁のない人の生活がリアルに感じられるようになった。

あらゆる信じられない話が、よくある話になって、どれだけオリジナルな人生を送ろうと頑張ってみてもグローバルな目で見たら(日本レベルの視野で見ても)、「ああいるいるそういう人」っていう話になる。あらゆる人生のシナリオに既視感がある、みたいな。

そしてそのグローバルな目が埋め込まれている現代人は、上には上がいて、下には下がいることを知っている。そしてついでに横にもいっぱい人がいることが分かるから、世の中は三次元的に広がっていて、実は上も下もなく、志向や向きの関係で便宜的に上下が決まるだけで、宇宙の視座で見れば「ここはとにかくまあるく広がっている」ということが分かる。

GPS機能みたいに、自分の立ち位置というものを冷静に、かつ正確に把握することができるわけです。

普通に考えれば自惚れたり自信を持ったりするのが難しいと思います。

世の中の広がりを知っていれば、ちょっとやそっとのことで褒められても、ナチュラルに僕なんてまだまだです、あの人なんかほんとすごくて…ってことになる。もしくはよく似てるのに真逆の位置にいる人を羨ましく感じたりする。

例えば、たくさんの作品が映画化する売れっ子小説家は普通にすげーってなるけど、その本人からしたら映画化とかそういうのはないけど読み巧者の評価がめちゃくちゃ高くて、映画化不可能とか言われている作品を書いてる人がすごくかっこよく見えたり。

そういうことってどの業界にもあると思うけど、上も下もなく、それぞれが自分の志向に従って「やり込んでる」だけで、もちろんときには不本意な方向に進んでしまうこともあると思うけど、「現代人」は厳しい「こだわり」や「縛りルール」を持って人生を作っていく。

そういう感覚があると思う。

なんて不思議な時代に生きているんだろう!

ここではないどこかに対する憧れが、焦燥感を伴った渇望の感覚。

そして強くてニューゲームみたいな、人生2週目の感覚。

これらを混ぜ合わせて考えると、「現代人」の思想や、行動原理に納得できる部分も多くなると思う。

すごく謙虚で腰が低い印象の人が多いなと思いきや、自信とかプライドがないワケじゃない。

志しも高いんだか低いんだか分からない。

常識が無いかと思いきや、すごく難しいことを難なく理解してたりする。

身の程知らずかと思いきや、分際をよくわきまえているようにも見える。

意見が無いかと思いきや、めちゃくちゃ主張する内容が豊かだったりする。

ちぐはぐに見えるのは、グローバルな視座からモノを見ておらず、あくまで自分の視野という角度で色々を見るから、自分から見た上下とか左右で判断してしまうからだと思う。

狭い世界で生きている人とか、頭の固いおじさんを揶揄して言っているのではなくて、ここで話しているのはあくまで現代人のこと。

誰もが、世の中を平面的に見て自分を基準に上下左右を判断してしまうことがあるし、人工衛星みたいに上も下もなくただ自分の軌道にしたがって動くだけの視界から物事を客観的に見ることもある。

物事を決めつけてしまうことも、一切の基準が信用ならなくなることもある。そんな中で、ふいに「ここではないどこか」に行かなくちゃいけない気になったり、強い「こだわり」を持って人生を形作っていったりしなきゃならない。

ここで考えたかったのは、繰り返すけど「なんて不思議な時代に生きているんだろう!」ってことです。

僕らは不思議だ。はっきり言って気味が悪い。

誰もが自分の世界観を持ちながら、たった一つの地球の上でわらわらと生活していると想像するとちょっと宇宙人に出会った気になる。そして「ああ宇宙人なのか」って納得する。このよく分からない自分と分かり切っている自分が共生している気持ち悪さや不安感がいつもある。

よく理解できる他人は同時にまったく理解できない他人でもある。深く考えると孤独になるけど、こういうことも書いて誰かに読んでもらえるという安心感があるのも不思議。

 

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