もっと丁寧に「多様性の尊重」について考える

まちづくりを考える

「多様性」は他人を認めるための言葉ではなく、「自分が間違っている可能性」を知るための言葉だと思う

という記事を書いたのだけど、いくつか表現に違和感が…とコメントをしてくださった方がいて、聞いてみると的を射た内容であり、僕が「多様性に求めるもの」、「多様性について考えていること」が実にあいまいで筋の通っていないことだったと分かりました。

よってこの記事ではもう少し丁寧に、多様性を尊重する社会ってどんなのだろう?ということを考えていきたいと思います。

そして僕が「多様性」という概念に執着する前提みたいなものもしっかり言葉にしておかなきゃいけないという衝動に駆られてもいますので、この記事はその辺から始めてみます。

とは言え、この時点でまだどんな風に記事が展開するか決まっていません。整理するつもりが逆に散らかしてしまう可能性もありますが、そんなことになっても迷走具合を楽しんでいただける方は最後まで読んでくれたらなと思います。

Contents

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はじまりは「まちにコミュニティを作る」というところから

僕が多様性について考えはじめたきっかけは、「コミュニティ」ってなんだ?という疑問について考えるところが根本にありました。

そもそも、もう1200人くらい?しかいない道北の田舎まち、観光地でもない、何かの通り道でもない辺鄙なまちでどんな「まちづくり」ができるだろう?どんなまちが理想だろう?というテーマを考えるために作ったブログがこれです。

「まち」ってコミュニティだよな?まちが無くなるってことはコミュニティが崩壊するってことで、コミュニティが崩壊するってことはコミュニケーションが成り立たなくなることに根本原因があるんじゃないの?というようなことを考えてきました。

なぜ文明は崩壊するのか。なぜ夫婦やカップルの関係は破綻するのか。きっと原因は同じだ

じゃあ、面白おかしいコミュニケーションや、丁寧なコミュニケーションが取れる場所は自然と強固なコミュニティになって、それはまちにあると良い機能なんじゃないか。

じゃあじゃあどんなコミュニティが良いの?という話になれば、もうそれは好き好きで。

正しいコミュニケーションじゃなくて面白おかしいコミュニケーションが取れれば良いと僕は思ってるんだから、「好み」というのは大事で、そこが合うことって大事なんじゃないかな、という辺りまで考えました。

何が面白おかしいかは人によって違うし、それは「好み」の問題だから。

好みをコミュニティの核にする良いところは、思想とか漠然と社会に規定された善性のような「正しさ」とは別の、いわゆる「理屈じゃねえのよ」って領域で繋がれることにあると思います(突き詰めれば正義も好みだけど)。

理屈じゃないので言葉にするのは難しいですが、意見が合うよりも好みが合う方が他人のこと信頼できるっていうのは感覚的にあって、それどころか意見よりも好みの方がその人となりというか個性や価値観を雄弁に語るみたいなところがあって、そういう色々な意味で「好み」で繋がるコミュニティは良いんじゃないかなと考えているのです。

そして世間では「好きを仕事にする」なんて言われることもあるように、好きであることを動機の根本に据える合理性みたいなものも組立たれつつあるから、その流れを信じても良いのではないかという気持ちもあります。

そんな考えの上で、僕は色んな人に会いたいなと感じていて、色んな人が僕のまちを訪れてくれたら最高だなと感じているわけです。

君は景色/世界観が違うということ

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伝えあえる、創造的なコミュニティ

理想的なコミュニティの形を考えたとき、理解と伝達というコミュニケーションを面白おかしく取れるような環境、つまり、「あの人は何考えてるか分からんから近づかないどこ」ではなく、「あの人は何考えてるか分からないから話を聞こう」みたいな柔らかい態度を取れる環境を作りたいと考えました。

コミュニケーション自体がコミュニティ作りの核だし、コミュニティづくりは即ちこういう小さい地域ではまちづくりになる…ってちょっと一直線に言い過ぎだけどそういう風に僕は考えてる。

これは田舎にありがちなヨソモノを警戒しすぎる空気とかが少なくなれば、近くに来てくれる人も増えるんじゃないかなというところから出発した考えで、窓口としてこのブログや実際にまちにあるコミュニティスペースや今後オープン予定のゲストハウスが機能すれば良いなと考えているのです。

さらに付け加えれば、というかこれを言わなきゃ伝わるもんも伝わらないと思うんだけど、僕の「好み」や性質は、内向的で本を読んだり文を書いたりするのが好きというものです。

個人的に行ってるアクテビティと言えば、オリジナルの図書館作りです。自分で本書いて、並べる。

だから「みんなでわいわいやろうぜ」というより、やはり伝達と理解の極致である(と僕が思っている)創作活動や表現活動という部分をゴリゴリに極めたいという感情が強い。

ただ同じ場所を共有して楽しむというのも良いけどちょっと消費的すぎると考えてるし、それならもっともっと都会とかアクセス良い場所の方が適してると思うから、こんな辺鄙なところでは「違う価値観」や「違う世界観」を持ち寄って、それを伝える、理解しようとする、という時間を贅沢に使える場所にしたいなと。

具体的には…というと長くなるけど、僕は他人の話を聞きたいし知りたい。もしくは価値観の塊みたいな読み物を読みたい。縁ある人の世界観をゆっくり堪能したい。

僕の故郷がそんな場所になったら素晴らしいと思う。で、価値観や世界観を惜しげもなく伝えあえるという信頼は、たとえインスタントなものだとしてもコミュニケーションが前提となるので、良いコミュニティだと思う。

これは好みの話で、ここに共感してくれる人が来るということは僕の中で大きな安心になるから、こうして書くべきかどうか分からないことを書き続けているのです。

多様性を尊重するってどういうことだろう?

そんでやっと本題です。

多様性を尊重するってどういうことだろう?という話。

「多様性」は他人を認めるための言葉ではなく、「自分が間違っている可能性」を知るためにある言葉だと思う

を書いたとき、僕の中では多分恐れの感情がありました。

「多様性を尊重する」

「違いを喜ばしく思う」

「色んな人を理解したいと思う」

こういう発言を繰り返すことで、ここがあらゆること、あらゆる人を無条件で肯定する場所になってしまったらどうしよう。すべての在り方が正しいとする場所になってしまったらどうしよう。

もちろん、過疎地域にとってはどんな人であれ来てくれる誰かがいることは嬉しいことで、身に余る悩みではあります。そんな事態を考える必要は無いと言い切っても良い。

しかし、このブログはまちづくりやコミュニティについて考えるためのブログで、僕がやっていることはまちづくりというテーマを扱った創作活動でもありますから、起こらない事態を考えなくて良いというわけではありません。

ファンが集まるコミュニティ。信者が集まるコミュニティ。

という記事においては、無条件の肯定もまた思考停止の一様態で、コミュニケーションの不全だというようなことを書いたので、後の記事で「多様性の尊重は肯定のための言葉ではなく、他者を知ることで自らを疑うきっかけになるものだ」と書いたのはその流れでもありました。

コミュニケーションがコミュニティを作るんだろうな、と思っている身では、多様性の尊重という言葉が単なる「あらゆる価値観の肯定」と捉えられるのは危険だなと思ったのです。

血の通った多様性

僕が「多様性が尊重される社会」に持つ違和感というか漠然とした不満は、それが単なるマナーやモラルとして社会に適応されつつある、ライフハック的な概念になりつつあることだったと思います。

多様性の時代だからどんな人がいても不思議じゃない、個性的な誰かを見てその人格を否定したり攻撃するなんて現代的じゃない、世の中にはいろいろな人がいると認めなければならないということ自体は、受け入れるのがとても楽です。

万が一自分が理解できない個性や価値観に出会っても、「多様性の時代」という名のもと、深く関わることなく、「ヨソはヨソ、ウチはウチ」と割り切ることで心を穏やかにすることができる。

それをすぐに間違っているとは言えないしそういう対処が必要なこともあるけれど、多様性の尊重という態度が形だけのものになりすぎれば、かえって人と人の壁は厚くなるのではないか。

透明なガラスだけど絶対に割れない、一見ボーダーレスだけどお互いに不可侵の世知辛い世の中になるんじゃないか。

多様性の尊重という概念が「他者の価値観を認める」という単一の思考で一人歩きすれば、人は他者との違いを考えるのではなく、考えなくなるのではないか。

この思考停止もやはりコミュニケーションの不全を招くもので、コミュニケーションの不在はコミュニティの崩壊を招くものだと考えた僕は、そういう風に肯定という理解の様態も、まち、国、世界とどんなスケールでものを見ても、好ましいものではないはずと思う。

記事にコメントをくれたAさんは、僕が懸念していることを汲み取って「血の通った多様性」を主張したいのではないかと言ってくれました。

変だと思ったことは変だと言える、嫌いなものは嫌いだと言える、興味がないことは興味がないままに、気になった部分は議論の末に分かったり分からないままだったり、正しさや間違いも各自が各自で思うままに判断できる、そういう多様性

が「血の通った多様性」。

その通りだと思いました。結果は同じだとしても、僕はこういう手間を求めてるし、こういう、一見すると無駄な部分や余計なことに人間を感じるから。

その上で、仮に分かり合えなくても、興味がなくても、それを世界から追い出さないという態度、自分から見た世界と、世界から見た自分は違うのだという冷静さが、成熟した社会に求められる人間性なのではないかと思うのです。

息切れ

まだ中途半端だけど完全に息切れしました!続きを書いていたのだけど、書いても書いても自分が何言ってるのか分からないのでここで唐突に終わります。

もっと丁寧に「多様性の尊重」について考える(完)

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