やっぱもっとラフに多様性の尊重について考える

まちづくりを考える

視野の違いによって、「多様性の尊重」というテーマで考えることは変わってくるのではないか。

最近「多様性の尊重」について、少し力を入れて考えているのだけど、どう考えてもというか、どこからか全然何も考えられなくなる壁があることに気付きました。

どこかが間違ってる。多分何か考えるのに不都合な勘違いが潜んでいるはずだと思って考えてみたら、それは多分僕が、「社会的な視野で言う多様性の尊重」と、「身近なコミュニティレベルで言う多様性の尊重」の話をごちゃごちゃにして考えているからなんじゃないかと思いました(まだ容疑のレベル)。

そもそもこのブログは、「まちづくり」について考えるためのもので、「コミュニティ」とはなんぞやみたいなことも考えるための公開ノートみたいなものです。

どのコミュニティにも「個性的な人」や「変わった人」がいるワケ。

↑このあたりから、「コミュニティ」と「個性・価値観の違い」についても意識し始めた記憶が。

上のリンクで言っているのは、「僕らの個性とか価値観の違いってありやなしやで、近づけば分かるし、遠ざかれば分からなくなるよね」みたいなことです。

誰でも自分の友達は「こいつ変わっててさー」とか言ったりすると思うけど、社会のレベルで見たらよくいるタイプどころか「類型化された中でも王道パターンそのまんま」みたいな性質に見えたりする。

つまり、身近な、構成員それぞれの名前を挙げられるようなコミュニティを想像しながら言う多様性と、日本地図を眺めるような気持ちで言う多様性ってなんか性質が違うんじゃないか。

それを一緒くたにして論理的な空気で貫こうとすれば無理が出る。

だからそこを一旦分けて、きっちり多様性について考えるのではなく、自分なりの視野からラフに考えてみようというのが、この記事の目的です。

Contents

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キャラクター的な意味で色んな人がいたら良いと言ってる?

僕が色んな人がいたら良いなというのは、例えばアニメ作品とかドラマ作品とかで言うところの「個性的なメンバーが織り成すドタバタコメディ」の、「個性的なメンバー」のことです。

物語のキャラクターの類型もある程度決まり切ってるっちゃ決まりきってますよね。

ツンデレキャラがいたり、天然キャラがいたり、真面目キャラがいたり。傷を抱えているキャラがいたり。それぞれ作品内では個性的で多様なんだけど、どれも他の作品に必ずと言って良いほどいるタイプのキャラだったりする。

でもそういうメンツでコミュニティをフルメンバーにすることで、それぞれの個性が際立つ。そしてそういった人物を覆うようにコメディなのか恋愛物なのかサスペンスなのかっていう場の基本設定がある。

場と個性が合わさることで、物語が展開する。

それって現実の世界でも同じことが言えて、ある特定のコミュニティがあって、そこに一定の個性が集まれば、自然とオリジナルの物語ができる。

で、僕が作りたいと考えているのは物語の基本設定としての場・コミュニティであって、そこに集まる人は共通点というか一定の親和性(つまり縁)がある人々なんだけど、やっぱり近づけば色々個性的なところが見え隠れすると思うから、それが楽しみだな、みたいなことを僕は考えてる。

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僕は創作者的に立場で「見る人」でいる

このとき、僕は自分をコミュニティの一員として認識しているのかというと、多分そうでもないんですよね。

僕は見たいだけなんだと思う。眺めたいだけ。場があって、そこに人が多かれ少なかれ集まれば、自然と、物語と言えば少々胡散臭いけど、それぞれ思い出なり、ちょっとした出会いなりがあって、田舎まちで過ごす時間が少し自分の糧になる。

だから、これは意識的にそうあろうと考えているところでもあるんだけど、僕は小説を書こうとするときの作者のように、一番身近な物語の観察者でいたいのだと思う。

書いてしまうとすごく気味が悪く聞えるかもしれないし、人を駒のように扱ってる風にも見えるかもしれません。

誤解だと言い切れないのが残念なんだけど、そういう視野から人を見て、支配したいとか操りたいとか言う気持ちとは違って、なんというか、少しでも濃い時間、見ようによっては嘘みたいな時間を過ごしてほしいなという気持ちがあります。

僕が見たい多様性は個人の中に?

これを説明するのは難しいです。でも「社会の中の自分」ってあんまり個性的に見えないものだと思うんですある程度みんな。相当目立つ人でない限り。

でも社会の中の自分には価値がなきゃいけないから、肩書みたいなものを用意しなくちゃいけなかったりするんだと思う。分かりやすく自分の持ち味を見せられるようにしなきゃいけないんだと思う。そんで他人は分かりたいことしか理解しないし、見える部分しか認知しない傾向にある。社会では「漠然としたみんなが私を見る目」が「私の個性」を作る。

だけど「この町にいる自分」は自然に個性的で面白くて、コミュニティに影響を与えうる人間だって自覚しやすい。そういう場を作りたい。

それぞれのキャラクターが生きて、同じ場所で同じような経験してもリアクションとか考えることとか全然違ってて、その世界の捉え方はあなただけのもので、社会で役に立つとかそんなんはどうでも良いから、分かりにくくても構わないから、役(キャラクター)を立ててくれ、と思う。

そういう自覚をするためには、僕みたいな人間が必要なんじゃないか、観察する人間が必要なんじゃないかと、こうやって僕が必要とか自分で言うのは口幅ったい限りだけども考えていて、そういう訳でこのブログではまちづくりと創作論を同時に語ったりしてる。

僕は僕のこういう個性を誰かと関わることで実感したいと思っているし、誰かがこの場で僕に関わることで個性を実感できる瞬間があったら良いなと思ってる。

第二、第三、第四、第なんでも良いから誰かの故郷に

でもなんかわざわざ気味悪い感じで言っちゃったけど、言ってることはすごい単純です。

自分のまちが誰かの第二とか第三とか、順位はどうでも良いけど、いつでも帰ってこられる故郷みたいになれば良いな、というようなこと。いざというときに浮世離れられる場所になったら良いなということ。

だってみんな実家に帰ったり地元の友達と遊んでるときは変に個性的ですよね。社会の中の自分は平凡だけど、小さなコミュニティの中では自分のこと唯一無二みたいに思えたりできませんか。

そしてたいてい「困ったヤツ」だったり「めんどくさいヤツ」だったり「謎にトラブってるヤツ」だったりして、まともな人なんかそうそういないじゃないですか。

違うかな、どうかな、違うかもな。

なんか歳を取るにつれて段々みんな大人になって、社会人らしくなって、会話が全部社交辞令と定型の挨拶の応酬みたいになって、冗談すらこなれてて個性が立場に飲まれるようになって、誰と話したんだっけな、何の話したんだっけなって思う瞬間も増えたりして。

社会で生きるって、相手に分かりやすくって有益な個性を用意しておくみたいなことで、名詞を作って配るみたいな作業の連続なのかもなとか考えてたまに無駄に落ち込んだりするんだけど、僕が多様性の尊重とか言ってるのはだから、例えば身近な個人の、社会で認められるでもない、人にわざわざ見せるまでもない個性であって、自分の中の多様とか、細部のことなのかもしれない。

ちょっと意味合いが変わったよ。「多様性を尊重する社会」

ここでちょっと欲張って社会的な視野での「多様性の尊重」について言及するとしたらこうなる。

まず、僕のいうところの第二の故郷、第三の故郷…第十一の故郷みたいな場所が日本中にあったら良いなと思うんです。

肩書とか分かりやすい個性みたいなの持って歩かなくてもぷらっと訪ねることができる場所が。

今の「自分像」がなんか違うな、微妙にフィットしないなと思ったらそっちに逃げる。あそこなら今の自分に合ってるかもなって思ったらそっちに逃げる。絶対どこかに自分のキャラクターがすっくと立つ場所がある。なぜか居心地良いなココ!みたいなところがある。

わざわざ自己紹介しなくても良い空気、みたいなのを感じる空間がある。これは絶対にある。保障する。

ここまで読んでもらえたとしたら、社会的な視野で言う「多様性の尊重」というワードも僕の中でちょっと意味合いが変わって来てることが何となく伝わるのではないかなって思います。

説明しないけど。何となく、あー、なんか、あー、くらいには伝わると思います。

まちづくりは競争じゃないと思う理由

もし微塵も伝わらなかったら、「え、なに自分探しとかそういう話?」って思うかもしれない。

うんまあ自分探しなんじゃないの。あんま自分って統制された存在じゃないし、色々混ざってごちゃごちゃしてるから、意外に多くの場所で自分に会えると思う。「俺って多様だなー」って思うはずだし、「自分は気分でしかない」とか思うんじゃないか。僕だけかな。

だから、旅は自分探しだって思うんだ【長崎に行ってきたよ】

まちづくりは競争じゃないみたいな記事も以前書いたんだけど、多分こういうことを言いたかったのです僕は。

だって僕が(僕のまちが)すべての個性を受け入れられるワケでも、理解できるワケでもない。そんな自信はない。きっとある特定の人の、特定の一時期の、特定の部分にしか共鳴できない。

自分の中の気分や、「今私を構成する主要成分」みたいなのもコロコロ変わると思うから、第11の故郷くらいまであると安心じゃないですか。

だから個性を受け入れる地域の側も「好み」とか「傾向」とか「癖」みたいなのを見せて、誰かのアンテナが探しやすいようにしなきゃと思うんです。どの地域も個性が目立ったら良いなと思う。お前が目立ってから言えって話ですが。

まちは人を受け入れる場所

競争だけじゃなくて、この地域は社会的にこんな価値がありますよ、魅力がありますよだけじゃなくて、それじゃ個人とやってること一緒でなんかアレだし、まちは場所なんだから、人を担おうぜ的な、これは男気です。人の心を、気分を受け止めようよって、これは多分フェミニンな部分の僕の感情です。

闇雲に探したって自分なんか見つからないでしょう。

自分探さなきゃって思うと結局「価値観壊れた」とか「視野広がった」とか社会的に用意された、没個性的な感想しか得られなかったりする。これも経験ある。なんなら価値観壊さなきゃくらいに思って旅をしてたことがある(そう思うと逆に壊れないけど。まあこういうとこもあるよなあ、なんか予想できてたなーみたいな冷めた感じになって失敗した)。

今あの場所に呼ばれてる気がする!みたいな感性を頼りに、だけどそこだけを頼りにするでもなく、なんか違ったら引き返したり別の場所に移動したり、そういうことができて、そういうことがリスクにならないような、多様な私を受け止めてくれる場所が必ずあると信じられるような社会が、「多様性を尊重する社会」の一つの形と言えるんじゃないか。

やっぱもっとラフに多様性の尊重について考える(完)

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