人気者じゃない町のまちづくり論/社会を捨て、まちに出よう

まちづくりには、「人気者になろうとする努力」みたいなものが必要だと思わされることがある。

「人気者になろうとする」という表現が当たらないのであれば、「認められる」とか「注目される」とかでもいいかも。

さらに言い方を変えれば、「スポットライトを浴びる」ことなのかもしれない。

舞台はどこでも良いでしょう。新聞、テレビ、WEBサービス、Facebook、ツイッター、などなど、注目が集まる場はたくさんあります。

とにかく社会というフィールドに認知されることこそがまちづくりの本質、とは言わないまでも、近道であることは間違いありません。

よって、どの地域も今は社会で生き残るための「社会性」を身に付けなくてはならない。

そう思わされることがあります。

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社会性の基本は有益であるか、でなければ無害であるか

社会性というのはつまり「人様の役に立つこと」であったり、反対に「無害さ」であったりするのでしょう。

「人の役に立たないのであればせめて無害であれ」というのが社会を無難に生き抜く秘訣なのかもしれません。

「無害」というのは、有益ではないにしろ、不利益を与えるようなことはするなということ。

昔から言われる「よそ様に迷惑をかけるな」という精神。

人の役に立つのが望ましいけど、それができないなら最低限よそに迷惑をかけるな。

これが社会性の基本なんだろうし、そんなルールが根底にある社会では、やっぱり役に立つ者が相対的に脚光を浴びるようにできている。

評価する何者かが社会での価値や善性を決めている

社会とは節穴の目を持つ教師のようなもので、発言力があり、リーダーシップがあり、ルックスもよく、如才なく、理知的で、優しく、ユーモアもあり、優秀で、人気のある、目立つ人間だけを認めるところがある。

そして教師に褒められた人物はさらに人気を集め、お手本となり、正しさのひな型となります。

教師に認められるためには、教師が認めるような能力を磨かなくてはなりません。

教師が恣意的に定めた善性を身に付けることによって、「認められる人間」になり、「有益な人間」になることができます。

つまり、社会という目に見えない意志や手によって、スポットライトを浴びるべきものはある程度決められているのです。

まちづくりは、言わばこのスポットライト欲しさにしているところがあるでしょう。

まちも社会性を身に付けなければ生き残れない?

ではなぜそんなスポットライトを欲するのかと言えば、それは、そうしなければ生き残れないからです。

就活中の大学生が十分な社会性を身に付けていなければ就職活動で躓き、その後生きるのが難しくなってしまうように、町だって、社会にとっていかに有益なのかを発信し続けられなければ生き残れません。

こんな観光名所があるとか、自然が豊かだとか、人が良いとか、景観が整ってるとか、美味しいものがあるとか、そういう価値をアピールし続けなければ。

そうして認められなければ、本当に消滅してしまうかもしれないし、思ったように生き残れなくなる可能性が上がる。

だから僕らは人気者の真似をして、人気者になる努力をして、長所とされるところを磨き、善性とされることを信じ、世で言う「社会人らしさ」を身に付けるように、誰かの役に立つべく、まちづくりをする。

社会に認められなければ幻想とまちづくり

でもどうでしょうか。

それこそ社会で一般的に言われているところの建前を信じれば、僕らは一人ひとりが生きているだけで価値のある存在なのではなかったでしょうか。

町だって同じで、少なくとも生きているだけで価値があるはずの人間が住むそれぞれの地域は、そこに「そう在る」というだけで価値のある存在であると言えます。

いや、社会という限定的なフィールドでの人の価値と、倫理上での人の価値を混同して語ってはおかしなことになるかもしれません。

だから、スポットライトを浴びなければ生き残れないというのは、半ば被害妄想と言っても良いほど、根も葉もないものであります。

しかし、実際には各地域のメンバーそれぞれが自分の地域は「そう在る」というだけで価値があるのだと信じながらも、どこか世間に「認められなくてはならない」と思っているものなのではないでしょうか。

そういう、錯綜した価値観の中で、まちの在り方を模索しているのが、現代のまちづくりの背景にあると感じています。

「そう在る」だけでそのままの姿を社会に認められたいからこその努力なのでしょうが、社会が定める価値基準は頑固だから、そちらに歩み寄るしかないというのが現状でしょう。

社会を捨て、まちに出よう

僕らは社会に認められる必要はありません。注目される必要もないと思います。

これは、取り立てて長所がない地域に住む人間の負け惜しみでも、目立たずとも賢明に生きている地域の在り方を擁護するものでも、努力が報われず認められない行為を肯定するものでもありません。

また、社会の脚光を浴びることを否定するものでもないのです。

注目を集めようが集めまいが、認められようが認められまいが、脚光を浴びようが浴びまいが、どっちでも良いだろうと言うことを書きたいのです。

個人的な意見であり、好みでありますが、まちづくりをするのであれば、脚光の有無によって価値や機能が変わるようなコミュニティなんか作るべきではない、と思います。

僕ら一人ひとり、家族、友達、恋人がどれだけ社会的に劣等生でもその価値が変わらないように、僕らの住む地域やふるさとや大事にしている土地というものは、どちらかと言えば倫理的な価値観の上にあるエモーショナルな存在であり、存在するというだけで価値があるものだと信じているからです。

もちろん、社会的に認められたり、人気が出るのは素晴らしいことだと思います。誇らしい気持ちが倍増するでしょう。

しかし、社会的な魅力よりも先に、もっと身近で、パーソナルな魅力をこそ(または欠点を)大切にすべきだと思います。身近な人間をそう扱うように。

そういう内向きのまちづくりが、ひいてはコミュニティの充実に繋がり、構成員が抱く愛郷心に繋がり、オリジナリティの追求に繋がり、物語の発生に繋がる、ほとんど唯一の方法だと思うのです。

インドア派のまちづくり

小さくまとまろうとするコミュニティ作り

これが、このブログで「イベント情報」とか「特産品について」とかではなく、「コミュニティ」ってなんだろうとか「個性」ってなんだろうと考えがちな理由です。

人気者じゃない町のまちづくり論/社会を捨て、まちに出よう(完)

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