『痴人の愛』語る動機が書かれた小説の冒頭と最後を読む。

小説を読んでいたり書いていたりすると、たまに妙なことが気になることがあります。

物語の語り手が、その物語を「語る動機」というのがその一つです。

この人はどうしてこの話しを始めたんだろう。

この人は何の目的があって、この物語を語り出したんだろう。

素朴な疑問として、こういう問いが浮かぶことがあるのです。

私の名前はキャシー・H。いま三十一歳で、介護人をもう十一年以上やっています。ずいぶん長く、と思われるでしょう。確かに。でも、あと八ヵ月、今年の終わりまではつづけてほしいと言われていて、そうすると、ほぼ十二年きっかり働くことになります。カズオ・イシグロ 『わたしを離さないで』(土屋政雄訳)9p ハヤカワepi文庫

『わたしを離さないで』の冒頭。急に自己紹介をして、自分語りを始めます。

こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。

でもはっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳)5p 白水社

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の冒頭。

やはりなんの断りもなしに、物語は始まります。

話を始める以前の事情はまったく知らないまま、とにかく話を聞くことになる。

※選書には特に意味はありません。何となく冒頭が印象的だったもので、思い出した順に引っ張り出してきただけ。

小説が突然始まることって、ごく当たり前なようだけど、よく考えてみれば語る動機がないって不思議ですよね。

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現実では必ず「語る動機」がある

語り手が、語る動機を僕らに知らせない、もしくは用意しないのは、現実的に考えるとありえないことです。

僕らはどんな種類のコミュニケーションであれ、必ず動機を持っていると思う。

例えばご近所さんとの軽い挨拶でさえ、「挨拶」という行為の裏には「今後の関係のため」といった目的が潜んでいる。

知り合いでもない、通りすがりの人に「挨拶」をする場合、「こんにちは」という言葉はご近所さんと交わす挨拶とは一緒でも、目的は「相手の警戒心を解くため」とか「自分の道行く人とは挨拶をすべきという信念を遂行するため」とかというものがある。

自分語りとなるとなおさら、熱心に質問されるか、よっぽど憤懣が溜まっていたりしない限り、始めないのが現実の、暗黙のルールではないでしょうか。

人が人と何かコミュニケーションを図る場合、あらゆる状況で、動機やきっかけが存在するはずなのです。

「間を持たせるため」「相手の価値観を知るため」「自分の人格を知ってもらうため」「記事を書くための取材」「好意を伝えるため」などなど、挙げだしたらキリがないけど、必ず、コミュニケーションを取ることによって果たしたい目的がある。

たいてい無意識的に、無自覚に、僕らは惰性で、しかし明確な目的を持ってコミュニケーションを取っている。

なぜ小説にはこれがないのか。

小説(物語)と僕らの壁

なぜ小説では、語る動機が用意されていない場合が多いのか。

それは、良くも悪くも、その場限りのコミュニケーションだからだと思います。

本を開いている間にしか成立しないコミュニケーション。

そして、双方向的なコミュニケーションではないからだ、とも思う。

こう書くと反論したくなる人もいるかもしれないけれど、小説の物語と僕らとの間には、やっぱり越えられない壁があるように思います。

つまり、お互いにとって共通の、「後と先」というものがない。

小説内の語り手は、僕に恥ずかしい物語の内容を知られたからと言ってなんの影響もないです。

また、僕(読者)の方はというと、話の途中で、しかも文の途中で、不意に用事を思い出し、突然本を閉じたとしても、その後本(語り手)との関係になんの影響もない。

これはお互いにとって後も先もない、今後の関係がないということではないでしょうか。

現実では、急に電話を切ったり、話を遮って帰ったりするとなんだアイツはとなる。

もうあんなヤツと話してやるものかと思うに違いないし、傷つけてしまうかもしれない。

猫と人間には越えられない壁があるように、物語と僕らの間にも、越えられない壁がある。

だからこそ、僕らは本と向かい合うのが楽しいのではないかと思うのです。

裏返せば、それは物語る内容について、そして読者についての信頼があるとも思えるからです。

こんなに安心できる(言語を介した)コミュニケーションの形は、小説という形式だからこそ生まれることであり、小説という形式の、もっとも大事な部分の一つだと思います。

特殊な冒頭『痴人の愛』

私は今から、こうこうこういう理由で、こういう話をしようと思っていて、それはあなたにとってこういう意味を持っているのだから、ぜひ最後まで読んでみてください、みたいな、ブログ記事みたいな冒頭の小説はあまりありません。

例外として思いつくものでは谷崎潤一郎『痴人の愛』。

私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。

それは私自身に取って忘れがたない貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君に取っても、きっと何かの参考資料となるに違いない。殊にこの頃のように日本もだんだん国際的に顔が広くなって来て、内地人と外国人とが盛んに交際する、いろんな主義や思想やらが這入って来る、男は勿論女もどしどしハイカラになる、と云うような時勢になって来ると、今まではあまり類例のなかった私たちの如き夫婦関係も、追い追い諸方に生じるだろうと思われますから。谷崎潤一郎『痴人の愛』5p 新潮社

誰がどんな理由でどんな物語を語ろうとするのかが、ここまではっきり書かれる例というのは、とても珍しいのではないかと思います。

しかし、これが本来あるべき、小説の正しい在り方だとも特に思いません。

『痴人の愛』は最高に面白くて何度も読み返す小説だけど、この冒頭は例外だよなと思う。

誠実な物語の始め方だと思うけれど、かえって警戒してしまうほど馬鹿丁寧というか、読者に対する信頼が窺えない冒頭です。

もちろんこの冒頭が悪いとも思わないどころか、むしろ読み終わったとき、小説と僕らには壁があるということを突き付けられ、穏やかに決別し、お互いの現実に帰るという清々しさの演出になっていると思うと、なんと透徹した心遣いなのかと思わずにいられない。

これで私たち夫婦の記録は終りとします。これを読んで、馬鹿々々しいと思う人は笑って下さい。教訓になると思う人は、いい見せしめにして下さい。私自身は、ナオミに惚れているのですから、どう思われても仕方がありません。

ナオミは今年二十三で私は三十六になります。谷崎潤一郎『痴人の愛』377p 新潮社

語る動機を用意する意味もない

うわーおと思うわけです。

最初丁寧に、何かの参考になるとか言ってたくせに、最後はまあ俺たちはラブラブなんだけどね、どう思われても良いんだけどね、あばよって感じです。

しかも本当に最後の最後は2人の歳を付け加えて

これなんか意味あんの?深読みすればあるのかもしれないけど、印象として、僕はあんまり意味があるとは思えないんですよね。言いたかっただけだろうって思う。

こいつ、読者を信頼してないっていうか、下手に出るフリをして、最後まで惚気話を聞かせたかっただけなんじゃないか!とすら思うのです。

しかも珍しいっていうか多分今後もあんたたちみたいな夫婦そうそう出てこないよ!って言わせたい感じもあって、ああ、まあでも羨ましくもないし、好きにやってよ、何はともあれ2人が幸せでおれぁ嬉しいよって言いたくなる感じ。

語る動機を示すことで、このような脱力した読後感を作り出す結果になっている。

何が言いたいのかというと、語る動機というのは、小説内で示された場合、現実のコミュニケーションのように機能するわけではないということ。

あくまで、小説的な技巧でしかなくなって、やはり小説は、僕らに語る動機なんて用意する意味もない。

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